まさに大王
李芳遠は鄭道伝に次いで、芳蕃、芳碩を襲って殺害している。
このとき、李成桂は病床にあったが、信じられない出来事を嘆き悲しみ、ついには王位を投げ出してしまった。
こうして王朝最大の実力者となった李芳遠だが、すぐに王位につかなかった。つなぎで兄の芳果を2代王につけるという慎重な姿勢を見せたあと、1400年にようやく朝鮮王朝の3代王・太宗(テジョン)となった。
ただし、太宗に対する李成桂の憎悪は凄まじかった。彼は退位後に地方で隠居生活に入っていたが、太宗が送ってきた使者をことごとく殺している。
それでも、時代に抗うことはできない。李成桂は太宗が送ってきた無学(ムハク)大師の説得を受け入れ、1402年に息子と和解した。そして、1408年に73歳の生涯を閉じた。
この直後から、太宗は神徳王后に対する憎悪をむきだしにした。神徳王后が1396年に亡くなったとき、王妃にふさわしい墓に埋葬されたのだが、李成桂の死後に太宗は神徳王后に対する祭礼を著しく格下げしたばかりか、墓を何度も移して最後は無縁仏のように放置した(神徳王后が復権したのは200年後のことだった)。
こうした露骨な復讐を行なった太宗だが、朝鮮王朝の基盤を整備した大王であったことは間違いない。朝鮮王朝が518年間も続いたのは、3代王の太宗の功績が大きいのである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)