鄭道伝の最期
鄭道伝と神徳王后の執拗な根回しによって、彼は軍権を剥奪され、その功績はすべて雲散寸前だった。地位も名誉も奪われた芳遠は、鄭道伝と神徳王后に激しい恨みを抱くようになった。こうして、芳遠は自らの立場を強化するために奔走し、対立構造は決定的となった。
1396年、鄭道伝の後ろ盾である神徳王后が亡くなると、鄭道伝は神懿王后の息子たちを露骨に排除する動きを見せ、両陣営は一触即発の状況となった。そして、1398年8月を迎えた。「朝鮮王朝実録」にはこのときの様子が詳しく描かれている。
鄭道伝は芳碩の異母兄を殺す計画を立てていた。その計画は、「病を患った太祖の容態悪化を理由に王子たちを1カ所に集め、一挙に殺害する」というものだった。
しかし、鄭道伝の計画を芳遠はすでに把握していて、鄭道伝の使いから伝言を受けると、兄弟たちに身の危険を知らせた。そして、自身は計画の実行で油断している鄭道伝の家に向かい、その邸宅に火を放ち逃亡する彼の命を奪った。
さらに芳遠は、異母弟たちの命まで奪い、無欲な二男の芳果(バングァ)を2代王・定宗(チョンジョン)に推薦した。そして、芳遠はほとぼりが冷めたころに自ら3代王・太宗(テジョン)として即位したのである。
コラム提供:チャレソ