朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)は初代王の太祖(テジョ)となったが、彼は神懿(シヌィ)王后との間に6男2女をもうけている。男子は上から、芳雨(バンウ)、芳果(バングァ)、芳毅(バンイ)、芳幹(バンガン)、芳遠(バンウォン)、芳衍(バンヨン)の6人だった。
後継ぎは誰なのか
太祖の二番目の夫人は神徳(シンドク)王后である。
彼女は神懿王后に比べるとはるかに有力な家柄の出身であり、その権勢は太祖にも大きな影響を与えている。
太祖と神徳王后の間には芳蕃(バンボン)、芳碩(バンソク)という2人の男子がいて、太祖は即位したあと後継ぎとしてわずか10歳の芳碩を指名した。
当然ながら、神懿王后の息子たちの反感は大きかった。
長男の芳雨は朝鮮王朝建国の翌年である1393年に39歳で死去していたが、野心家の李芳遠(イ・バンウォン)は25歳で血気盛んだった。それにしても、太祖はなぜ10歳の芳碩を後継ぎにしたのか。
実は、太祖は当初、芳蕃を後継者にしたいと考えていた。それは、神徳王后の強い希望があったからだが、側近から「性格が乱暴で王にふさわしくない」と反対され、太祖は後継ぎを芳碩に変えている。
いずれにしても太祖は、寵愛していた神徳王后との間にできた息子を後継ぎにすることにこだわった。
この決定は多くの火種を残した。とりわけ、朝鮮王朝の建国に功績があった芳遠を無視したことが問題となった。
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