1689年に廃妃になった仁顕(イニョン)王后は、「私は罪人です」と自らを卑下し、実家の奥の離れで質素に暮らした。その一方で、空いた王妃の座に昇格したのが張禧嬪(チャン・ヒビン)だった。彼女は王宮の中で贅沢三昧に暮らした。
毒殺未遂事件が発生
張禧嬪の栄華は長続きしなかった。
それは、粛宗(スクチョン)が豹変したからだ。
彼は新しい側室として淑嬪(スクビン)・崔(チェ)氏を寵愛するようになった。艶福家の粛宗はこのように心変わりが激しかった。
1694年3月、一部の官僚が告発書を出した。それは「張禧嬪の兄の張希載(チャン・ヒジェ)が淑嬪・崔氏の毒殺をはかった」という内容だった。
王宮が騒然となった。
粛宗はすぐに決断した。張禧嬪が毒殺未遂事件に関わっていると考え、張禧嬪を側室に降格させたである。
それだけではない。空いた王妃の座に仁顕王后を復位させた。
まさに電撃の発表だった。一度廃妃になった女性が再び王妃になるというのは前代未聞のことである。
しかし、粛宗は当たり前のような顔で仁顕王后を迎えた。
「一度は奸臣たちにそそのかされて間違って処分してしまったが、ようやく本当のことを悟った」
「復縁を願っていたが、王朝に関わることを処置するのは簡単ではなかった。辛抱して6年が経ち、ここに凶悪な者たちを処分することができた」
饒舌に語る粛宗。言い訳もうまかった。
再び仁顕王后が王妃になった。しかし、彼女はやはり粛宗の子供を産むことができなかった。その代わり、淑嬪・崔氏が粛宗の二男となる王子を産んだ。その王子が後の21代王の英祖(ヨンジョ)である。
(後編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:チャレソ
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