古代の三国時代を描いた韓国時代劇を見ると、臣下の者たちが王に対して「陛下」と呼びかけている。読み方は語尾を伸ばして「ペーハー」となる。しかし、朝鮮王朝時代を描いた作品では、王のことを「殿下」と呼んでいる。こちらも語尾を伸ばして「チョーナー」となる。同じ王なのに、三国時代と朝鮮王朝時代では王に対する呼び方が異なる。なぜ、そうなのか。
「陛下」ではなく「殿下」!
高句麗(コグリョ)を例にとると、歴代の王は皇帝と同義であった。ゆえに、「陛下」という尊称で呼ぶのがごく自然なのである。しかし、朝鮮王朝時代は違う。「小国が大国にさからってはいけない」というのが王朝を創設した李成桂(イ・ソンゲ)の基本的な方針であって、中国に気兼ねしていた。
中国に皇帝がいるのに自分も皇帝を称すれば、小国が大国と同格になってしまう。これではいつ大国の機嫌をそこねないともかぎらない。李成桂は自ら一歩しりぞいて、皇帝ではなく王を称した。この場合の「王」は「皇帝」より格が一つ下なのである。よって、朝鮮王朝では臣下の者たちが王に対して、「陛下」ではなく「殿下」と呼びかけたのだ。
実は李成桂は国号を決めるときも、「和寧(ファリョン)」と「朝鮮(チョソン)」の二つを用意して、中国大陸の明におうかがいをたてている。前者は李成桂の故郷の地名、後者は紀元前の時代に連綿と続いた由緒ある国の名である。結局、明の意向に沿って王朝は「朝鮮」を国号にした。
中国大陸の支配者は、17世紀になると明から清に代わったが、朝鮮王朝の考え方は変わらなかった。一時は清にさからったことがあったのだが、朝鮮王朝は10万人を超える大軍に攻められて、16代王・仁祖(インジョ)は清の皇帝の前で膝を屈して謝罪している。それは1637年のことで、以後は朝鮮王朝もさらに清の意向に沿わなければならなかった。さすがに、皇帝と称すわけにはいかない。
事情が変わったのは1894年である。この年に何が起こったのか。日清戦争が勃発して日本が勝利したのだ。これによって、清は朝鮮王朝への影響力を失った。その結果、26代王・高宗(コジョン)は1897年に自らを皇帝と称し、国号を「朝鮮」から「大韓(テハン)」に改めた。ここに大韓帝国が誕生した。1910年までのわずか13年の運命ではあったが……。
以上のような歴史を知っておくと、中国との関係にも一層の感慨が深まる。
ところで、2005年前後から中国の一部の歴史学者が「高句麗の歴史は中国の一つの地方史」という見解を打ち出して韓国側が反発するようになった。韓国では「我が国の歴史が中国に乗っ取られる」と危機感を持つ人が多かった。その頃を境にして、『朱蒙(チュモン)』をはじめ高句麗を舞台にした時代劇が数多く作られるようになった。
そうした作品がアジア各国で人気を博したこともあって、「高句麗の歴史は中国の一つの地方史」という中国側の見解もすっかり影がうすくなった。このように、韓流の人気は歴史認識にも大きな影響を与えている。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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