11代王の中宗(チュンジョン)の治世は38年に及んだ。歴代27人の王の中で五番目に長い在位だった。しかし、晩年は病気がちで床に臥(ふ)せっているときが多かった。そんな中宗を献身的に看病したのが長男の世子(セジャ/王の後継者)だった。
孝行息子の鑑
世子は中宗の二番目の正妻だった章敬(チャンギョン)王后が産んだ王子だった。その章敬王后が出産後すぐに亡くなったために、世子は生母の愛を知らないまま育った。
この世子を陥れようとしていたのが文定(ムンジョン)王后だった。彼女は中宗の三番目の正妻だが、1534年に王子の慶源大君(キョンウォンデグン)を産んでいて、その我が子を王位に就けようと画策して何度も世子の命を狙った。手口は過激になるばかりで、放火によって世子の夫婦を焼死させようとしたこともあった。まさに、文定王后は冷酷で無慈悲な継母だった。
それでも、世子は文定王后を母として敬った。それが息子の当然の務めだと信じて疑わなかった。それほどの親孝行だっただけに、中宗の病状が悪化するにつれて世子は痛々しいほど嘆き悲しんだ。
世子は冠を脱がずに昼夜ずっと中宗のそばにいて看病を続けた。しかも、父を案じて自分の食事にも箸をつけなかった。
その甲斐もなく中宗が1544年に56歳で亡くなると、世子は5日間も飲み物に手をつけなかった。この話が市中で広まると、人々は世子のことを「なんと親孝行なのだろうか。まさに孝行息子の鑑(かがみ)だ」と讃えた。
とはいえ、世子の悲しみがあまりに深かったので、彼のほうも倒れてしまうのではないかと側近たちは心配した。
実際、世子は中宗を継いで12代王・仁宗(インジョン)として即位しても、体調がずっと悪かった。誰の目にも看病疲れが原因と映ったが、それでもなお仁宗は父が亡くなったのは息子のせいだ、と自分を責め続けた。
その姿を文定王后は冷やかに見ていた。彼女の頭の中には、我が子を王位につけることしかなかったのだ。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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