仁祖(インジョ)は、クーデターを成功させるまでは、卓越した戦略性と優れた統率力を持っていた。だからこそ、光海君をあれほどあっさりと追放することができたのだ。しかし、王位に上がったあとは、凡庸さばかりが目立つようになった。
数々の失政
仁祖が即位した翌年の1624年には、功臣が反乱を起こした。それも仁祖が信頼して功臣を遇していれば防げる出来事だった。
また、1627年には北方の異民族国家だった後金の侵攻を許したが(和睦が成立している)、これも国防があまりにおろそかになり、その隙を後金に突かれた結果だった。
当時の朝鮮王朝は、中国大陸の明を崇め、新興勢力の後金を“辺境の蛮族”として蔑(さげす)んでいた。これが後金の怒りを買った。この国は清と名を変えて、1636年12月に怒濤の大軍で再び朝鮮半島に攻めてきた。その圧倒的な軍事力に対抗することができず、朝鮮王朝は屈伏し、仁祖は清の皇帝にひざまずいて謝罪している。
これほどの屈辱を受けた王は、朝鮮王朝では他にいなかった。しかも、仁祖の息子3人は人質として清に連れていかれてしまった。これほどの苦難を受けていたのに、都の人々は「王があまりに情けないから、我々の生活はどん底になるんだ」と仁祖を無能呼ばわりした。
そんな仁祖は、長男の昭顕世子(ソヒョンセジャ)が清での長い人質生活を終えて9年ぶりに故国に戻ってくると、外国の文物にかぶれているという理由で昭顕世子を冷遇した。この昭顕世子は帰国後わずか2カ月だった1645年に亡くなるが、仁祖に毒殺されたのではないかという噂が絶えなかった。
真相は藪(やぶ)の中だが、「息子を毒殺したのでは?」と噂されるところが、仁祖の徳のなさを物語っている。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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コラム提供:チャレソ