【時代劇が面白い】庶民から怨まれた14代王・宣祖(ソンジョ)はどんな人生を歩んだのか

1552年に11代王・中宗(チュンジョン)の孫として生まれた宣祖(ソンジョ)。しかし、彼は側室から生まれた息子なので本来なら王になれるはずがなかった。なぜ彼は王として即位することができたのだろうか。

宣祖の後継者問題

13代王・明宗(ミョンジョン)には正室が産んだ息子が1人いた。
しかし、その明宗の息子がわずか12歳という若さで世を去ってしまい、世子(セジャ/国王の正式な後継者)を側室から生まれた王子から選ぶことになった。こうして宣祖は世子として指名され、1567年に14代王として即位した。
宣祖が即位してから25年が経過した1592年は、朝鮮王朝が建国してから200年となる年だった。しかし、この年に豊臣軍が攻めてきたことにより、壬辰倭乱(イムジンウェラン)が勃発した。
建国してから200年間は大きな戦いがなかったため、国防をおろそかにしていた朝鮮王朝は豊臣軍の大軍に釜山(プサン)に上陸されてしまい、都の漢陽(ハニャン/現在のソウル)を陥落させられた。
この戦いで宣祖は、民を見捨てて真っ先に逃げるという王としてあるまじき行為をしてしまう。それにより、宣祖は多くの民から怨まれることになった。

その壬辰倭乱による戦いは、1598年に豊臣秀吉が亡くなったことにより終結したが朝鮮王朝は甚大な被害を受けて土地が荒れてしまい、政治も混乱していた。
その中でも一番大きな悩みとなったのが後継者問題である。宣祖の最初の正室だった懿仁(ウィイン)王后は病弱で息子を産むことができず、世子は側室から生まれた息子から選ぶことになった。その候補となったのが長男の臨海君(イメグン)と二男の光海君(クァンヘグン)だ。
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もしも光海君(クァンヘグン)が長く国王であったならば

仁穆(インモク)王后は光海君(クァンヘグン)の斬首に執着した!

光海君(クァンヘグン)と仁穆(インモク)王后の激しい対立の理由は?

光海君(クァンヘグン)が行なった代表的な善政は?

朝鮮王朝にはこんなにも王位継承をめぐる重大事件が多かった!

2020.05.08