「コラム」連載 康熙奉(カン・ヒボン)のオンジェナ韓流Vol.110 「米びつ餓死事件の裏話」

1762年に起こった朝鮮王朝の悲劇的な事件が「世子の米びつ餓死事件」だった。21代王の英祖(ヨンジョ)が息子の思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めた事件だが、その裏話をお伝えしよう。

本当に哀れな人々

思悼世子を米びつに閉じ込めた英祖。彼には息子を許す気持ちが毛頭なかった。
その証拠に、思悼世子を米びつに閉じ込めた翌日に、宦官の朴弼秀(パク・ピルス)と尼僧の假仙(カソン)が処刑された。
二人は思悼世子をそそのかした罪に問われたのだ。

罪状は、朴弼秀が「世子に従って遊興して乱行に加担した」であり、假仙が「もともと尼僧なのに髪を長くして宮中に入り世子を誘惑した」というものだった。
二人は即座に斬首されたのだが、他にも世子と遊興した妓生(キセン/宴席で歌や踊りを披露する女性)の中で5人が処刑されている。
本当に哀れなのは妓生たちである。彼女たちは仕事で思悼世子の宴席に出ていただけなのに、完全にとばっちりを受ける形になった。
罪もなき彼女たちを処刑するほど、英祖の思悼世子に対する怒りはまったくおさまっていなかった。
それは、監禁から6日経っても同様だった。この日になって、英祖は思悼世子を補佐していた側近のほとんどを罷免した。これは思悼世子が世子に復帰することが絶対にないことを明確に示したものだった。

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2020.02.15