英祖(ヨンジョ)が朝鮮王朝の21代王として即位したのは1724年だ。彼は蕩平策(タンピョンチェク)という政策を採用した。これは各派閥から有能な人材を採用する政策で、それによって激しかった党争を抑えることができた。
政治的な業績
英祖は、国防の強化や苛酷な刑罰の禁止、減税や庶民の官吏採用などで、どんどん成果を上げていった。
朝鮮王朝では厳しい身分制度が続いていたが、その中で少しでも人間性に配慮した政策が行なわれるようになった。
このように英祖には政治的な業績が多いのだが、まったく問題を起こさなかったわけではない。
英祖には2人の子供がいた。長男の孝章(ヒョジャン)は1719年に生まれたが、わずか9歳で病死してしまう。それから16年後の1735年に思悼世子(サドセジャ)が生まれた。彼は生まれつき聡明だった。
思悼世子は2歳のときに、儒教の教典を暗唱したと言われている。その後もたびたび大人を驚かせた彼は、将来は名君になると期待されていた。しかし、彼は10歳のときにいくつかの政策を批判して、当時の主流派閥の老論派から警戒されるようになった。
英祖は聡明な息子を頼もしく思い、14歳くらいから政策の一部を任せるが、思悼世子と老論派の相性はとても悪かった。
老論派の者たちは思悼世子の足を引っ張り始めた。彼の悪評を英祖の耳に入れるようにしたのだ。
英祖は思悼世子を呼んで問いただしたり、叱ったりした。そんなことが何度も続いたので、思悼世子は次第に英祖の言うことを聞かなくなっていった。
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