『雲が描いた月明り』では、パク・ボゴムが演じたイ・ヨンの生母は死んだことになっていたが、実際の母は純元(スヌォン)王后と言って、19世紀前半の朝鮮王朝で女帝のようにふるまった怪女であった。果たして、どんな女性だったのだろうか。
勢道政治が始まる
純元王后は1789年に生まれた。
夫は朝鮮王朝の23代王の純祖(スンジョ)である。
純元王后は純祖との間に1男4女をもうけていて、その長男がイ・ヨンこと孝明世子だった。
純祖は1800年に10歳で即位したが、純元王后は1歳下で性格が穏やかな純祖に積極的に働きかけて、父の金祖淳(キム・ジョスン)を政治の補佐役に押し上げた。ここから安東(アンドン)・金氏の一族による勢道政治が始まった。
この勢道政治というのは、王の外戚(主に王妃の親族)が我がもの顔に政治を動かすことをさしている。
金祖淳を中心とする安東・金氏の一族は政権の要職を独占して反対派を粛清し、自分たちに都合がいいように法律と制度を変えてしまった。
安東・金氏の一族が政治を牛耳ったことで、さまざまな弊害が生まれた。特に、収賄が横行して民衆の反感が強まり、各地で反乱が起きた。いずれも鎮圧されたが、農民の生活は苦しくなる一方だった。
これほど社会が不安定になって、ようやく純祖は勢道政治の弊害を自覚するようになっていった。
しかし、もはや安東・金氏の一族の政治力が強すぎて、純祖は王権を力強く発揮することができなかった。彼にとっては、純元王后を正室にしたのが不運としか言いようがなかった。
実家に最大の権力をもたらした純元王后だったが、彼女がなにごとも自由に操れるわけではなかった。
一番の衝撃は、息子の孝明世子がわずか21歳で1830年に亡くなってしまったことだ。このときばかりは純元王后も運命を呪った。
4年後の1834年には純祖が44歳で世を去り、孝明世子の息子が即位した。それが24代王の憲宗(ホンジョン)である。
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