朝鮮王朝を苦しめた「後金」とは何か

 

丙子胡乱
1636年5月、後金の君主になっていたホンタイジが新たに皇帝に即位し、後金は国号を「清」に改めた。
清の国力は強大になる一方で、明の衰退は甚だしかった。
それでも、仁祖は清との外交をうまく立ち回れなかった。
1636年12月、約束を守らぬ朝鮮王朝に激怒した清は、12万の大軍で再び攻めてきた。

仁祖は漢陽の南側にある南漢(ナマン)山城に避難して籠城したが、ついに抵抗できなくなり、漢江(ハンガン)のほとりの三田渡(サムジョンド)において、清の皇帝の前で土下座して謝罪した。
歴史的に、「丙子胡乱(ピョンジャホラン)」と呼ばれる。
以後、朝鮮王朝は清に対して臣下の礼を取らざるをえなくなった。要するに、服従させられたのである。
1644年には明も滅亡し、清は中国大陸の覇者となった。以後、清は3世紀近くにわたって中国を支配し、1912年に滅亡した。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

コラム提供:ロコレ
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2019.05.22