2019年3月1日は、「三・一独立運動」から100周年の日である。この「三・一独立運動」とはどんな歴史なのか。起こった出来事を振り返ってみよう。
植民地となった朝鮮半島
1910年8月に518年間も続いた朝鮮王朝が滅亡し、「韓国皇帝がすべての統治権を完全かつ永久に日本国皇帝に譲渡する」という日韓併合が行なわれた。朝鮮総督府による日本の植民地統治が始まったのである。
朝鮮総督府は天皇に直属し、日本の内閣からも独立した存在として朝鮮半島における立法・行政・軍事の権力を一手に握っていた。
その根本は軍事力による統治ということだった。朝鮮総督が現役の陸海軍大将から選ばれたことも、その武官専制を象徴していた。
朝鮮半島では言論・集会・結社の自由が完全に奪われ、1911年には朝鮮教育令が公布されて日本語による臣民教育が本格的に始まった。
また、朝鮮半島の権益を強化する経済政策が次々に打ち出されたが、とりわけ民衆を困窮に陥らせたのが土地調査事業であった。
固定資産税徴収のための私的所有権の確立と地形の調査が名目であったが、実際には多くの土地が日本人地主や国策会社に払い下げられて、大半の農民が土地を失った。
さらに、朝鮮総督府は会社令によって、朝鮮半島の民族資本の産業を著しく制限した。必然的に生活に困窮する人たちが続出した。
独立宣言書
民衆の抗日感情が沸点に達したのが1919年3月1日だった。
きっかけは、いくつもあった。
◆1919年1月に朝鮮王朝の26代王・高宗(コジョン)が亡くなったとき、朝鮮総督府による毒殺説が流布したこと。
◆世界的に民族自決の意識が高まっていたこと。
◆日本にいた朝鮮半島出身の留学生たちが東京市神田区のYMCA会館に集まり、1919年2月8日に独立宣言(二・八宣言)を採択したこと。
こうした情勢の中で朝鮮半島では独立をめざす人たちが直接行動を起こすことを決意し、3月1日の独立宣言書の発表につながった。
それは、京城(ソウル)のパゴダ公園で、独立運動家たちによって起草された。
「我らはここに我が朝鮮国の独立と朝鮮人民の自由民たることを宣言する」
こうした言葉による独立宣言書が発表された直後から、民衆が「独立万歳」と叫びながら行進した。
この独立運動は事前にしっかり準備されたものであり、他の主要都市でも同時に示威行動が起こった。そして、学生・市民・農民たちが結束した抵抗運動は全土に波及していった。
これが「三・一独立運動」である。
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