燕山君(ヨンサングン)はクーデターによって王位を剥奪され、江華島(カンファド)に島流しとなった。そして、2カ月後の1506年11月に31歳で人生を終えた。そんな暴君に代わって王位に就いたのが11代王の中宗(チュンジョン)だった。
趙光祖の存在感
中宗は、クーデターを成功させた高官たちによって祭り上げられた王だった。
それだけに、即位してからは高官たちに頭が上がらず、思いどおりに王権を振るうことが難しかった。
そんな中で、燕山君の統治時代に最も被害を受けた士林派(儒学を究めた人たち)の動きが活発化していく。
その中で特に有能だったのが趙光祖(チョ・グァンジョ)だった。
彼は熱心な儒学者で真理の探求に精進する人物だった。心の清らかさを尊び、天命に従うという人としての理想を追い求めた。それだけに、趙光祖は誰よりも民の存在を尊重した。結果的に、先のクーデターを成功させた勲旧派たちと熾烈な政治闘争を繰り広げることになった。
中宗は趙光祖を全面的に信頼し、彼の勧める通りに政治を行なっていった。ただ、時間がたつと、徐々に窮屈な思いを抱くようになった。
「王は聖人でなければならない」
「王はあらゆる欲望を捨てなければならない」
そう執拗に語る趙光祖を中宗は次第に遠ざけるようになった。
実際、趙光祖は優秀な人物だったが、あまりにも純粋すぎた。
1519年、趙光祖は自分に賛同する士林派の若者たちを連れて中宗に直訴した。
「成希顔(ソン・ヒアム/クーデターの中心人物)たちが私腹を肥やしています。彼らは、自分たちの功績が大きいと我が物顔で語りますが、実際は天命に従ったのみ。しかも、民の思いが実った結果だったのです」
趙光祖は強固に主張した。
「今後は、成希顔たちから権力を取りあげるべきです」
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