18世紀末から財政難にあえいでいた徳川幕府は、莫大な経費がかかりすぎる朝鮮通信使の応接の改革に乗りだした。その結果、経費を少しでも軽減するために、12回目にして初めて文化8年(1811年)の朝鮮通信使を対馬で応接している。
徳川幕府の崩壊
19世紀になると、日本と朝鮮半島との間の善隣友好関係にも、暗い影がさすようになった。
朝鮮王朝では、19世紀前半は悪政と凶作が続き、その上、欧米諸国の外圧をひんぱんに受けるようになり、政情が非常に不安定であった。
日本も同様であり、徳川幕府は黒船来航を初めとする外圧や深刻な財政難のために朝鮮通信使を日本に招くことができないでいた。
さらに文久元年(1861年)には、幕府と朝鮮王朝の橋わたし役を果たしていた対馬にロシア軍艦が侵入する事件などが勃発したりして、日朝両国の関係も混乱する一方であった。
こうした流れの中で、ついに1868年に徳川幕府が倒れ、あたらしい明治維新政府が発足した。
その直後には、日本から新政府樹立を告げる使節が釜山に派遣されている。(2ページに続く)