3・1独立運動
日本が朝鮮半島を植民地にしたのは、その権益を完全に手中にすることが目的でしたので、それに沿った政策が次々に実行されました。その中で、朝鮮半島の人々が一番困ったのが土地調査事業です。
これは、固定資産税徴収のための地形の調査が名目でしたが、現実的には多くの土地が日本人地主や国策会社に払い下げられました。結果的に、農民の多くが土地を失いました。また、この時期に朝鮮総督府は会社令を制定し、朝鮮半島の民族資本の産業を制限しました。生活に困窮する人たちが続出し、多くの人が職を求めて日本や満州に渡っていきました。
強圧的な政治によって民衆の抗日感情が激化したのが1919年3月1日でした。
伏線となった出来事は、高宗(コジョン)が1919年1月に亡くなったことです。このとき、朝鮮総督府による毒殺説が大きな噂になりました。
怒りを露にする人々の中で独立をめざす集団が決起して、3月1日に京城(ソウル)のパゴダ公園で、「独立宣言書」を発表しました。
それは、朝鮮半島が独立国であることを宣言したものです。勢いを得た民衆は「独立万歳」と叫びながら街頭でデモを行ない、その抗議行動は全土に波及していきました。大々的な「3・1独立運動」が始まったのです。(ページ3に続く)