「コラム」康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓が知るべき歴史2/日韓国交回復編」

1960年4月、大統領選挙で李承晩(イ・スンマン)が不正を働いたことに怒った学生が決起。反政府デモが激化した。李承晩は亡命を余儀なくされ、建国以来の政権が倒れた。韓国の政治状況は混迷の度合いを深めたが、1961年5月に陸軍がクーデターを起こし、少将だった朴正熙(パク・チョンヒ)が政権を取った。

難航した国交回復交渉

朴正熙が特に力を入れたのが日本との国交正常化の交渉である。日本から賠償金を得て経済成長の糧にしようとしたのだ。
そもそも、日韓国交樹立のための予備会談が始まったのは、1951年10月20日のことだった。
仲介したのはアメリカだ。

当時は朝鮮戦争の最中であり、戦いを有利に進めるためにアメリカは、日韓が政治・経済・軍事で協力関係を結ぶことを強く求めた。
この予備会談は11月20日まで開かれたが、日韓の間ではまだ信頼関係が醸成されておらず、議題を統一することすら難航した。
以後も交渉が断続的に行なわれたが、日本の全権大使が「植民地時代に日本はいいこともした」というような発言をして紛糾し、両国の間で溝が深まるばかりだった。
しかし、新しく政権を掌握した朴正熙は、早期の成立を望んだ。そうした姿勢が交渉を進展させたが、1910年の日韓併合に関する立場の違いが足かせになった。(ページ2に続く)

2017.06.25