「光海君の首を切れ!」
光海君を支持する派閥は少数派だった
それゆえ、彼は即位後も強いあせりを感じていたはずだ。結果的に、側近たちの陰謀を止められず、兄弟たちと骨肉の争いを起こした。
兄の臨海君は1609年に殺害され、永昌大君も1614年に命を奪われている。
仁穆王后の恨みは甚だしかった。それも当然だ。息子を殺されたうえに、自分も大妃の身分を剥奪されて幽閉されたのだから……。
恩をあだで返された、という強い恨みが仁穆王后を鬼にした。
1623年、光海君はクーデターによって王宮を追放された。このとき、仁穆王后は、捕らえられた光海君の斬首を強く主張した。クーデターを成功させて16代王になった仁祖(インジョ)は、「それだけはできません」と何度も拒んだが、執拗に仁穆王后は光海君の斬首を命じた。
仁穆王后には、「光海君の首を取らなければ、恨みを晴らすことができない」という強い感情があった。
結局、光海君は流罪となり、仁穆王后の願いは叶わなかった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:ロコレ
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