第6回/善徳女王の生涯(後編)
善徳女王は、新羅(シルラ)の学問振興にも並々ならぬ熱意を見せた。640年には、優秀な学生たちを唐に派遣して、唐の有名な学校に入学させてほしいと頼み込んでいる。この時期、唐は多くの優れた儒教学者を都に集めていたので、新羅から派遣された学生たちは、留学先でさぞかし貴重な学問を積んだことだろう。
恐ろしいほど勘が鋭い
善徳女王は、王位についている間に神がかり的な鋭さを発揮することが何度もあった。その象徴的な出来事が636年の夏に起こっている。
王宮の西に玉門池という池があったのだが、そこにヒキガエルが大量に群がるようになった。
善徳女王はこの噂を聞いて、その様子を見た。
そのあとで近臣を呼んでこう言った。
「ヒキガエルは、どれも怒ったような目をしているので、兵士の相であるに違いない。我が領土の西南の端に玉門谷という谷がある。ヒキガエルの怒った目から判断すると、そのあたりに必ず敵の兵が潜んでいる」
善徳女王はそう言うと、次に「玉門谷を捜索して、敵がいれば先制攻撃で討ち取れ」と命じた。
新羅の兵が指示された場所に行ってみると、確かに百済の500人ばかりの兵が潜んでいた。
ただし、百済軍は新羅がまだ気付いていないと思って油断していた。
そこで、新羅軍は不意をついて百済軍を襲い、これを全滅させた。善徳女王が気付かなければ、逆に百済軍に襲われて新羅は窮地に陥っていたかもしれない。
機先を制した善徳女王の勘の鋭さは、新羅の勇猛な将軍でさえも恐れおののくほどであった。
女性であるがゆえの苦悩
善徳女王がいくら善政を行なっても、女性であるということから各方面から軽んじられたことも事実である。
そうした蔑視は、敵対していた高句麗や百済で甚だしかったが、友好関係にあった唐ですら、隙があれば善徳女王を退位させようとした。
具体的に、唐は新羅を支援すると見せかけて国を乗っ取ろうという動きさえ見せていたのである。
その象徴的な出来事が起こったのは、643年のことだった。善徳女王は使者を唐に派遣して、こう願った。
「高句麗と百済の攻撃が日に日に激しくなっています。我が新羅は、今後も唐の帝様の命令に従いますので、どうか援軍を派遣して助けてください」
しかし、唐の帝は使者にこう答えた。
「いろいろな策をめぐらせて汝の国を助けることはできるが、そもそも、汝の国は女性が王になっているので隣国の軽蔑を受けているのではないか。そのことで敵国からの侵略が多くなって、ゆっくり休むこともできない。そこで提案だが、私の親族の1人をそちらに遣わして汝の国の王とすればどうか。当然、王が行けば軍も一緒に行って護衛することになるのだ……」
つまり、唐の言い分は、援軍を出すかわりに自分たちの親族を王にさせてくれということである。
暗に善徳女王の退位を促す話だった。当然ながら、新羅としてはこれを受け入れるわけにはいかなかった。
善徳女王も、どれほど悔しかったことだろうか。新羅で初めての女王には、女性であるがゆえの苦悩も多かったのである。
国力増強の立役者
善徳女王は、即位してからずっと高句麗や百済の攻撃を受けて苦しい国政を強いられていた。
それでも、彼女の大きな功績は644年に金庾信(キム・ユシン)を大将軍に任命したことである。
大将軍といえば今でいう総司令官。この人選を誤ると国の存亡にかかわるのだが、金庾信は戦略性に優れた人物で、重要な職務に就くと、大きな働きをして新羅を強大な国家に導いていった。
結局、新羅は唐と連合して百済と高句麗を滅ぼし、最後には、朝鮮半島を占領しようという野心を持った唐も追い出して676年に統一国家を築いた。
その功労者の金庾信を抜擢したのが善徳女王であり、人事の面でもすばらしい才能を発揮したのである。
その善徳女王は最後まで新羅の行く末を案じながら、統一の29年前の647年に亡くなった。
治世は15年だったが、新羅の国力増強に大きく貢献した人生だった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:ロコレ
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