第4回/新羅の歴史(後編)
三国時代の中でも、新羅の軍勢は強かった。その背景には、兵士の精神面の強化に成果をあげていたという事実がある。その最たるものが花郎(ファラン)精神なのだ。一体、この花郎精神とは何であろうか。
勇敢さと忠誠心
そもそも、花郎というのは、貴族的な家庭に育った青年たちの集まりのことだ。彼らは幼い頃から徹底的に思想教育を受けて育つが、その際の精神的支柱となったのが花郎精神だった。
その基本的な戒めは、「王に忠誠を尽くすこと」「親孝行をすること」「信頼をもって友人と交わること」「戦争では退却しないこと」などである。
この花郎精神が新羅の青年たちに与えた影響はとても大きく、軍事的に言えば、強固な兵力強化の礎となった。
なにしろ、勇敢さと忠誠心を徹底的にたたき込まれて育つので、新羅の兵士たちは戦場でも強かった。
この花郎精神は現在の韓国にも受け継がれており、特に韓国の陸軍士官学校は今でも花郎の集まりと形容されるほどだ。
676年に朝鮮半島を統一
7世紀前半、軍事的に高句麗や百済より優勢となった新羅。そうなると新羅は、高句麗と百済の両方から激しく攻撃を受けるようになった。
やはり、一国で2つの国と戦いを繰り広げるのは辛い。そこで新羅は、中国大陸の巨大王朝との連携を図ろうとした。
これは中国大陸を支配していた唐にとっても渡りに舟だった。当時、唐は何度も高句麗を攻めていたが、その度に失敗し苦汁をなめていた。そこで、唐は新羅との連合を受け入れた。
さらに、新羅では金春秋(キム・チュンチュ)の活躍がすばらしかった。彼は654年に即位して武烈王(ムヨルワン)となり、先頭に立って新羅を強国に導いた。唐との連合も功を奏し、新羅は660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗も滅亡させて三国時代を終わらせた。
新羅・唐の連合軍は朝鮮半島の覇者となったが、唐は百済や高句麗の領土を独自に占領しようと企んだ。
当然ながら、新羅がこれを許すわけがない。
両国は激しく武力衝突したが、祖国の統一に執念を見せた新羅は唐の大軍を撃破。676年に真の意味で朝鮮半島の統一に成功した。
部族国家の林立から三国時代という大きな潮流を経て、ここに新羅は朝鮮半島で初の統一国家を築いたのである。
935年に新羅の歴史が終わる
統一王朝の都となった慶州はシルクロードの終着地として、東西の文物が集う大都市に発展した。
また、新羅は中国とも交易を盛んに行なったが、そうした中から張保皐(チャン・ボコ)のような超大物が誕生している。
しかし、新羅の一人勝ちの時代は長く続かなかった。慶州の立地条件の悪さが統一王朝の屋台骨を揺るがすようになったのだ。
慶州は朝鮮半島の南東部の端にあり、全土を統治するうえでは不都合だった。それゆえ、朝鮮半島全体に目が行き届かなくなり、各地に有力な豪族が台頭する結果となった。
そうした豪族たちは、自分たちの正統性を高めるために後百済(フペクチェ)や後高句麗(フコグリョ)といった国を建て、新羅と激しく争うようになった。
その中から、高句麗の継承者を自称する王建(ワン・ゴン)が918年に高麗(コリョ)を建国し、勢力を伸ばしてついに935年に新羅を帰順させた。ここに新羅時代は終わりを告げたのである。
その後、高麗は各地の勢力を駆逐して936年に新たな統一国家を築いた。
統一王朝は新羅から高麗に移ったのだが、新羅時代の制度や風習の多くが高麗にも受け継がれ、それは今の韓国社会にも継承されている。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:ロコレ
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