第3回/雨森芳洲(前編)
私が初めて雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)のことを強く意識したのは1990年のことだった。この年、韓国の盧泰愚(ノ・テウ)大統領が来日して国会で演説をしたのだが、そのときに、日本と朝鮮半島の交流に尽力した人物として雨森芳洲の名を挙げたのである。以後、雨森芳洲のことが気になり、いろいろと調べてみた。
静かな佇まいの記念館
雨森芳洲は、1668年に近江国の雨森村に生まれた。現在の滋賀県長浜市高月町雨森である。今この地には、雨森芳洲の業績を紹介する記念館がある。
1990年代の半ばに一度行ったことがあったが、再び興味を持って訪ねたのは2013年5月のことだった。
米原駅から北陸本線の普通列車に乗った。下車したのは高月駅である。米原駅からは20分の乗車だった。
高月駅から東北の方向に25分ほど歩いていくと、雨森の集落に出る。それぞれの家の周囲には堀があって清流が流れている。いくつもの水車も見えていて、どこか懐かしい景観に心がなごむ。
そんな一角をゆっくり歩いていくと、門前に大きなケヤキの木がそびえている雨森芳洲庵の前に出た。ここが雨森芳洲の記念館なのである。
平屋で構成された館内は、とても静かな佇まいだ。
展示されている資料は、雨森芳洲の著作や遺品が中心で、さらに雨森芳洲が関係した朝鮮通信使のものがあった。
それを順に見ながら雨森芳洲の業績を振り返ってみた。
朝鮮通信使の接待役
儒学を学んだ雨森芳洲が対馬藩に仕えたのは1689年で21歳のときだった。
農地に恵まれない対馬藩は、地理的に近い朝鮮半島との交易が命綱だった。それだけに、朝鮮王朝と良好な関係を築くことに腐心してきたが、その実績を買われて対馬藩は徳川幕府と朝鮮王朝の間に入って外交の実務を担っていた。
そんな対馬藩で雨森芳洲は釜山(プサン)に派遣されて朝鮮語も習得。朝鮮王朝の事情をもっとも詳しく知る逸材になった。
それゆえに、朝鮮通信使が来日した際に、使節一行が日本で一番頼ったのが雨森芳洲だった。
1719年に来日した朝鮮通信使は、江戸時代の全12回の中で9回目の使節である。来日の目的は徳川吉宗の襲職祝賀のためで、使節の総人員は475人にのぼった。この中で製述官を務めていたのが申維翰(シン・ユハン)である。
一方、朝鮮通信使の接待で中心的役割を果たしたのが対馬藩の雨森芳洲だった。このとき、彼は51歳である。
申維翰は日本紀行の名著として名高い『海游録』を残しているが、その中で雨森芳洲とのやりとりを詳細に記している。
雨森芳洲と申維翰が初めて会ったのは1719年6月27日だった。対馬に到着した朝鮮通信使の一行を雨森芳洲が出迎えたわけだが、申維翰は以前から雨森芳洲のことを「日本で抜きん出た人物」と聞いていたので、その対面を楽しみにしていた。
謙譲の心遣い
『海游録』には、そのときの雨森芳洲の次のような言葉が記されている。
「日本人の学んで文をなす者は、貴国とは大いに異って、力を用いてはなはだ勤むるが、その成就はきわめて困難である。公は、今ここより江戸に行かれるが、沿路で引接する多くの詩文は、必ずみな朴拙にして笑うべき言であろう。しかし、彼らとしては、千辛万苦、やっと得ることのできた詞である。どうか唾棄されることなく、優容してこれを奨詡してくだされば幸甚」
要するに、雨森芳洲は申維翰に対して「道中で文化交流が行なわれるとき、日本側の詩文は未熟なものが多いが、大目に見てください」と頼んでいるのである。
雨森芳洲の言葉から察せられるのは、彼の謙譲の心遣いである。遠来の客人を讃えて、自らへりくだっているのだ。ここまで謙虚に言えるところに、雨森芳洲の腰の低さがうかがえる。
とはいえ、雨森芳洲は言うべきところはズバリと指摘している。日本外交を担う立場として、決してひるんでいない。
特に、雨森芳洲と申維翰は出会ってそうそうに、礼の解釈をめぐって対立している。そこにはどんな背景があったのであろうか。
(後編に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:ロコレ
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