西武池袋線の「高麗」駅から丘陵地帯を40分ほど歩くと、聖天院にたどりつく。山門をくぐらず、そのまま右に進むと、すぐに「高麗王廟」に出た。社の中に高さ2・3mの石塔がある。これが墓に該当するのだが、祀られているのは誰なのか。
東国に移る渡来人
石塔に祀られていたのは、本記事の中編で取り上げた若光(じゃくこう)である。8世紀の初めに大磯に定住していたはずの彼の墓が、なぜ埼玉県の聖天院にあるのか。
それを語る前に、7世紀後半に畿内から東国に移る渡来人がいかに多かったかを見てみよう。「日高市史」(埼玉県日高市発行)は次のように記録している。
・684年、朝廷は百済人23人を武蔵に移した。
・687年、高句麗人56人を常陸に、新羅人14人を下野に、新羅人22人を武蔵に移した。
・689年、下野へ新羅人を移住させた。
・690年、新羅人12人が武蔵に、さらに新羅人の若干が下野に移った。
このように、日本に来ても渡来人は故国ごとに分類されて「百済人」「高句麗人」「新羅人」と呼ばれていたが、彼らは次々に武蔵(現在の東京都と埼玉県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)に移っていった。朝廷が東国開発を本格化させていた影響を受けたものだ。
最初の高麗郡長官は?
移住政策の一環として、若光に率いられた高句麗人たちが706年から相模に定住したわけだが、朝廷はさらに大規模な東国開発を計画し、それは716年に実施された。その際、駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総(千葉)、下総(千葉)、常陸、下野に住む高句麗人1799人を武蔵に移して「高麗郡」を新設した。
新たな郡が設置された背景には、東国に分散していた高句麗人たちを同じ場所に集中させることを嘆願する勢力の存在がある。それは、高句麗系の特権階級たちだ。彼らは、百済系や新羅系とは一線を画し、自分たちの勢力を関東で集約させることを願った。それが高麗郡への集中移住に結びついた。
しかし、すでに居住地で生活の基盤を作っている高句麗人も多く、移住には不満も出た。そうした不満を抑える指導者が必要となった。その適任者が、すでに大磯で実績を作っていた若光だったのである。彼は最初の高麗郡長官に任命されて、相模から武蔵に移ってきた。
高句麗が滅亡する2年前の666年に日本に来ているから、716年というと、すでに50年の歳月が流れている。当時としては、どれほどの高齢だったのか。それにもかかわらず、彼はりっぱに職責を果たし、新しい土地で尊敬を集めた。
その若光の菩提寺として751年に創建されたのが聖天院である。高麗郡の本寺として知られ、江戸時代には「院主の格式は諸公に準ずる」と言われるほどだった。若光の墓と伝えられる「高麗王廟」が聖天院にあるのも、そこが彼の菩提寺だからだ。
その聖天院から500mほど北には高麗神社がある。若光を祀る神社で、宮司は若光の子孫が代々務めている。
今に至るまで、若光の血が旧高麗郡の地に伝わっていることに驚く。古代が連綿と現代につながっていることの証明ではないだろうか。
新羅郡の新設
高麗郡の誕生から42年後の758年に、武蔵国に新たな郡が生まれている。それが新羅郡である。
新しい郡を作るにあたって、朝廷は渡来人の僧侶32人、尼2人、男性19人、女性21人を武蔵国に集めている。ほとんどが新羅人だと推定される。
場所は現在の新座(にいざ)市のあたりだ。この歴史的事実によって、「新座」という地名が新羅にゆかりがあることがわかるだろう。
またしても、朝廷は東国開発に渡来人の力を活用したのだ。新羅は三国時代を制して統一王朝を築いていたが、もともとは朝鮮半島の中で日本に一番近い国であった。日本の朝廷は遣新羅使を668年から836年まで28回も送っている。
その際、特別に通訳のための要員が必要なかったと言われている。それほどお互いの言葉は近かったのである。
亡国の百済や高句麗の人たちが新天地の日本でそれなりの生活をしている……そんな噂が新羅でも広まり、多くの民が日本に渡ってきたことだろう。そういう人たちを集めて新羅郡が新設されたのである。
高句麗人と坂東武士の関係
入間川をはさんで、新羅郡の反対側は高麗郡。両郡は対峙する形になったが、もともと朝鮮半島では宿敵同士。果たして、日本ではどのような関係にあったのか。高麗郡の住民が新羅郡に敵対意識を燃やすことはなかったのだろうか。
さらに、気になることがある。1799人もの高句麗人が高麗郡に住み、その末裔たちはどうなったのか、ということだ。
高句麗人というと、馬の扱いに長(た)けた人々だった。彼らが武蔵国に移住してから3世紀ほど経つと、関東で馬を操る坂東武士が目立つようになる。彼らは勇猛な一団だが、果たしてどこから生まれてきたのか。
何か、高句麗人の末裔と関係があるのかどうか。
大きな謎である。
この謎を解明するのは非常に難しいであろうが、「馬」を中心に考えると、何か見えてくるものがありそうだ。
日本の中世と近世は武士の時代だった。古代とは明らかに様相が変わってしまったが、果たして渡来人たちの影響はどこまで及んだのだろうか。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
出典=『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉 発行/勉誠出版)
コラム提供:ロコレ
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