「コラム」【『イニョプの道』歴史解説】物語と史実はどう交わるのか【その1】

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史実と創作が巧みに交差している『イニョプの道』。当時の歴史や社会情勢を知ることができれば、物語をより楽しめるはずだ。混迷を極める朝鮮王朝建国時の様子を辿りながら、ドラマとリンクする部分を探していこう。

新王朝を建国した李成桂と功臣たち

1398年、中国大陸の大国・明は高麗王朝の領土に再三立ち入るなどの挑発行為を繰り返した。当時の高麗王・禑王(ウワン)は、明の横暴に頭を痛めてついに討伐を決意する。討伐軍の総司令官に任命されたのが、高麗最高の武将と称された李成桂(イ・ソンゲ)だった。

しかし、李成桂は大国である明と戦うことに反対していた。彼は連日の雨によって軍の士気が下がるのを感じると、意を決して高麗王を討つ決意をした。

大軍を指揮する最高の武将。

李成桂はすぐに高麗の首都を制圧すると、全権を掌握した。李成桂は禑王を王位から引き下ろすと傀儡の王を即位させて、反抗勢力を鎮圧していく。そして、逆らう者をすべて処罰した1392年、自ら初代王・太祖(テジョ)として朝鮮王朝を建国した。

李成桂の朝鮮王朝建国に大きな力となった人物は、建国功臣として高い地位と権力を与えられた。『イニョプの道』の主人公イニョプの父であるクク・ユもその1人である。彼がもつ府院君(プウォングン)という肩書は、高麗時代から朝鮮王朝時代まで使われた爵位で、普通は王妃の父に与えられている。功臣の中でこの号が与えられたのは、ごくわずかであり、クク・ユがどれほど李成桂の信頼が厚かったのかがわかる。このように、建国初期の朝鮮王朝において、イニョプは想像以上のお嬢様だったのだ。

 

父子の決裂

李成桂の新王朝建国に尽力したのは、彼が重用した臣下たちだけではない。先妻から生まれた6人の息子たちも大きな活躍をしている。特に、五男の李芳遠(イ・バンウォン)の活躍は大きかった。

李芳遠は父の王権を盤石にするために汚れ仕事にも果敢に手を染めた。特に、李成桂が狩りの最中に落馬して床に伏せているときは、暗殺の脅威から守るために片時も父の側を離れなかったという逸話もある。

父と子の信頼関係が崩壊したのは、李成桂の安易な後継者指名だった。彼は大きな功績を残した先妻の息子たちを差し置いて、幼い異母弟を次の王に指名したのだ。

この決定を支持したのが、後妻や李成桂の側近だった鄭道伝(チョン・ドジョン)だ。こうして、李芳遠を筆頭にした先妻の息子たちと、異母兄弟を擁立する重臣たちの間で対立の空気が出来上がった。

両者はお互いに相手の出方をうかがうのだった。

1398年、先手を打とうとしたのが異母兄弟の派閥だった。彼らは李成桂危篤というウソの報告で、先妻の息子たちを一か所に集めて一網打尽にしようとしたのだ。しかし、彼らの動きは李芳遠にはバレていた。

李芳遠は相手の動きを逆に利用して、大規模な粛清を敢行。さらに、幼い2人の異母弟まで殺してしまった。

李成桂のショックは大きかった。彼はこの一件を境に王位から退いて隠居してしまう。代わりに先妻の二男が2代王・定宗(チョンジョン)として即位した。

 

悲しみの「咸興差使」

定宗が即位しても実際の権力を握っていたのは、軍事を掌握していた李芳遠だった。定宗は李芳遠を刺激しないように、狩りや趣味に没頭する。こうして、2人の兄弟が権力をめぐって争うことはなかった。

しかし、全ての兄弟が権力を諦めたわけではない。1400年には、王位に野心を燃やした四男の李芳幹(イ・バンガン)が武力で王位を奪おうとしたのだ。しかし、李芳幹の挙兵は軍部を掌握していた李芳遠の前に簡単に鎮圧される。

この一件が終わると、定宗は自ら王位を退いて李芳遠が3代王・太宗(テジョン)として即位する。王位に執着を見せない定宗を、太宗は最期まで大切にした。

しかし、李成桂は太宗の即位を認められなかった。彼は王の証である玉璽を持ち出すと、咸興(ハムン)にこもってしまう……。

『イニョプの道』と史実が交差し始めるのはここからだ。

李成桂から玉璽を取り戻すために、咸興には太宗からの使者が何度も送った。しかし、李成桂は太宗の使者のことごとくを殺してしまう。このことから韓国では、送り出した使者が戻ってこないことを「咸興差使(ハムンチャサ)」と呼ぶようになった。

イニョプの父クク・ユも咸興差使として李成桂の元へ送られていたが、まさに、命がけの任務だったのだ。

 

外戚との関係に頭を痛めた太宗

玉璽を一向に返さない李成桂だが、次第に多くの使者を殺したことを後悔するようになった。そして、自分が慕う無学大師(ムハクテサ)が説得にくると、ようやく都に戻り、太宗に玉璽を渡して隠居した。以後、李成桂は政治に関わらず、静かな余生を過ごした。

李成桂から玉璽を取り戻した太宗は、ようやく王としてしっかりと政務を行なえるようになった。しかし、彼にはもう1つ悩みがあった。

それが、政治中枢に食い込もうとする外戚たちの存在だった。

『イニョプの道』第7話で、太宗が外戚を処罰しようとするセリフや態度を見せるが、これは史実でも同様である。

太宗は1人の正室と9人の側室を娶り、29人の子供を儲けた。特筆すべきは、四男四女を生んだ正室の元敬(ウォンギョン)王后だ。

名家出身の元敬王后は、高麗王朝時代だった1382年に太宗(当時はまだ李芳遠)の妻となった。上昇志向の強かった彼女は、太宗の即位に大きな力となった。前述した鄭道伝の暗躍を事前に察知したのも彼女の功績だった。

こうした功績も大きく、1400年に芳遠が太宗として即位すると同時に王妃となった。太宗と元敬王后の関係が冷めていくのもこの頃からだ。

太宗は外戚を多く作ることで権力を分散させて王権を強化しようと考えると、多くの側室を娶った。しかし、これが元敬王后の嫉妬と不平を煽る結果となったのだ。

一方、太宗側から見ると、元敬王后の兄弟が権力を握るために、幼い王子たちに取り入ろうとしたことが気にいらなかった。

夫婦共に大きな不満を抱いていたのだ。

1407年、太宗はあまりにも目に余る元敬王后の兄弟たちを処罰した。当然、一族の失態に元敬王后が廃位になってもおかしくなかった。しかし、太宗は世子(王の後継者)の今後を考えると、元敬王后を王妃の座から降ろすことはしなかった。

このあたりの史実が、作中の太宗の言動に反映されていたのだろう。

コラム提供:ロコレ
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2016.06.26