NHKBSプレミアムの放送も折り返し地点を迎えた韓国時代劇『イニョプの道』。良家の令嬢から最下層の奴婢に転落したヒロイン・イニョプに押し寄せる苦難の数々は、視聴者の多くに奴婢という身分の過酷さを伝えた。今回は、ドラマをより楽しむための基礎知識として、「朝鮮王朝時代の身分制度」に迫る。
朝鮮王朝時代の厳格な身分制度
『イニョプの道』の舞台となった朝鮮王朝時代には、厳格な身分制度が適用されていて、生まれた時の身分は滅多なことでは変わることはなかった。
身分制度の頂点にあるのが王族だ。彼らは朝鮮王朝において絶対的な存在として君臨した。
王族に続く特権階級なのが両班(ヤンバン)だ。貴族的立場である両班は、高い地位を得て中央官庁に勤めたり、地方の支配者として君臨した。
両班になるには、科挙という官吏登用試験に合格する必要があった。そのため、両班に合格できるのは、幼少期から高度な教育が施された両班の子ばかりだ。
両班の下に存在するのが中人(チュンイン)だ。彼らは下級官僚を中心に軍事・法律・医療など、専門職に従事した。
中人に続くのが、人口の大半を占めた一般階層の常民(サンミン)である。
常民は主に農業や漁業などで生計を立てたが、その日の生活に困るのが普通であり、子に高度な教育を与えるなどとてもできなかった。結局、常民の家に生まれた子は、常民として生きるしかなかったのだ。
常民の下の最下層の身分が賤民(チョンミン)である。ここに奴婢も含まれている。奴婢というのは売買される対象であり、自ら職業や住居を選ぶ自由もなかった。結婚が許されていたため家族をもつことはできたが、賤民の子は賤民であり、厳しい身分制度から抜け出すことは叶わなかった。
波乱の生涯を送った敬恵王女
『イニョプの道』の序盤、イニョプの父親は大罪の濡れ衣を着せられて処刑されてしまう。こうして、イニョプは罪人の子として奴婢に身を落とす。まさに、悲劇的な境遇といえよう。
朝鮮王朝時代ではイニョプのように、身内が大罪を犯したことによって、奴婢に落とされるという事例はいくつもあった。その代表的な人物が、時代劇『王女の男』にも登場した敬恵(キョンヘ)王女だ。
敬恵王女の波乱に満ちた生涯を少し見てみよう。
敬恵王女は5代王・文宗(ムンジョン)の長女として1435年に生を受けた。彼女は文宗の長女として、早世した母の代わりに6歳年下の弟・端宗(タンジョン)の面倒を見ながら立派に成長。15歳になると名家出身の鄭悰(チョン・ジョン)と結婚して、幸せな家庭を築いた。
しかし、1452年に父・文宗が亡くなり、弟・端宗が11歳で即位すると状況は一変する。端宗の叔父である首陽大君(スヤンデグン)がクーデターを起こして、端宗を支持する臣下たちを処罰してしまったのだ。さらに、夫である鄭悰まで不穏分子として鄭悰は、都から離れた土地に流罪にされてしまった。
それから3年後、王宮で孤立した端宗は、首陽大君に自ら王位を譲った。こうして、首陽大君は7代王・世祖(セジョ)となった。
奴婢に身を落とした王女
敬恵王女は愛する夫と弟が受けた受難の数々に悩み苦しんだ。彼女にできた唯一の抵抗は、自身が病床に伏せていることを大々的に公開することで、世祖への不信感を高めることだけだった……。
一方、宮中では端宗を復位させようとする動きが後を絶たなかった。世祖は端宗が生きている限り、反乱の動きはなくならないと悟ると、ついに彼の命を奪ってしまう。さらに、鄭悰までも反乱軍を組織しているとして処刑してしまった。
当時の朝鮮王朝では、罪人の身内は奴婢に落とされる。こうして、かつて王女だった敬恵王女は奴婢にまで身を落としたのだった……。
後年になって世祖は、罪悪感から敬恵王女の身分を回復させようとする。当然、絶対的存在である王の許しがあれば、身分を回復させることも容易だ。しかし、敬恵王女は鄭悰との間に生まれた息子の身分回復だけを望むと、自らは仏門に入って俗世を離れてしまった。
敬恵王女の生きざまはまさに悲劇という他ない。
『イニョプの道』で敬恵王女のように苦難の道を行くイニョプ。彼女も敬恵王女のように、かつての身分を取り戻すことができるのか……。これからの放送も見逃せない。
文=ロコレ編集部
コラム提供:ロコレ
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