「コラム」韓流ファンのための「日韓・近現代史」/ 第4回 朝鮮戦争と日本

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第4回 朝鮮戦争と日本

 

1945年8月15日以降、朝鮮半島ではほとんどの人が自力で政府を樹立できると信じていました。戦勝国であったアメリカ、イギリス、ソ連も当初は、早い時期に朝鮮半島で朝鮮民衆みずからの政府が誕生することを容認していたのです。しかし、戦後の冷戦構造が事情を一変させました。

 

朝鮮戦争が勃発

アメリカとソ連の対立がそのまま朝鮮半島に持ち込まれる構図となりました。また、植民地時代から続いていた独立闘争が一枚岩になれずに分裂状態であったことも影響したのです。

結局、朝鮮半島は38度線を境に南北に分断され、南側には1948年8月に大韓民国が建国され、翌月の9月に北側に朝鮮民主主義人民共和国が誕生しました。

アメリカを頼る大韓民国の初代大統領は李承晩(イ・スンマン)。ソ連の支援を受ける朝鮮民主主義人民共和国の指導者は金日成(キム・イルソン)でした。

狭い半島に2つの国家ができてしまったのですが、民衆は早い段階で統一が成し遂げられることを期待していました。

しかし、事情が一変する事態になりました。1950年6月25日、北朝鮮の軍隊が攻撃を開始して朝鮮戦争が勃発したのです。

武力でまさる北朝鮮軍は電撃的にソウルを占領。さらに快進撃を続けて韓国領土のほとんどを制圧し、残るは釜山(プサン)周辺の狭い一角のみとなりました。

この朝鮮戦争は日本にも重大な影響を与えました。

 

警察予備隊が発足

連合国最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥は、吉田茂首相に対して警察力増強を要望。具体的には、日本の安全を維持するために7万5千人から成る警察予備隊の設立を促したのです。

占領政策を仕切るマッカーサーの要望は命令と同義です。日本は、平時の治安維持を担う一般の警察と別に、軍隊のような性格を帯びた組織の創設に動きだしました。

全国の警察署を窓口に隊員募集が始まると、給料や待遇面での好条件が評判を呼んで38万人を越える応募者が殺到しました。そのうち、軍隊経験者が50.4%にのぼったのです。

新たに組織された警察予備隊がやがては自衛隊になっていくのですが、その創設のきっかけは朝鮮戦争でした。

なお、アメリカ軍を中心とする国連軍は、1950年9月15日に仁川(インチョン)上陸作戦を敢行しました。

これはマッカーサーが韓国軍の窮地を救うために発案した危険な賭けでしたが、作戦は成功し、朝鮮戦争の戦況は一変しました。

国連軍はソウルを奪回したあとに北上。38度線を越えて、一時は北朝鮮軍を中国国境近くまで追い詰めましたが、逆に10月25日に中国軍の参戦を招いてしまいました。

国連軍は大敗して後退。1951年1月4日には中国・北朝鮮軍の反攻によって再びソウルを奪われるという屈辱を喫したのです。

ようやく国連軍がソウルを奪い返したのが1951年3月15日でした。しかし、国連軍最高司令官のマッカーサーは指導力に疑問符がつけられ、4月11日にアメリカのトルーマン大統領によって解任させられました。

一切の職を解かれたマッカーサー。日本の占領政策を主導してきた彼は、解任によって寂しく本国に帰還することになりました。

 

戦後復興を加速させた朝鮮特需

朝鮮戦争は38度線あたりで膠着状態に陥り、そのまま1953年7月27日に休戦となりました。停戦でも終戦でもなく、一時的に戦いを休むことを意味する“休戦”のまま現在に至っているのです。

朝鮮戦争は、民族分断を決定づけた悲劇の内戦でしたが、日本にとっては朝鮮特需を生み出しました。アメリカ軍の要請による軍需物資の増産がどれほど日本の経済活動を潤したことでしょうか。結果的に、朝鮮特需は日本の戦後復興を加速させる役割を果たしたのです。

海をはさんだ朝鮮半島では、休戦後に南北の経済状態が対照的になりました。

北朝鮮はソ連の支援を受けて計画経済が順調に推移し、国力が向上していきました。反対に韓国は経済がふるわず、北朝鮮とは差がつくばかりでした。

1960年4月には、大統領選挙で李承晩が不正を働いたことに怒った学生が決起。反政府デモが激化しました。

李承晩は亡命を余儀なくされ、建国以来の政権が倒れました。

韓国の政治状況は混迷の度合いを深めましたが、1961年5月に陸軍がクーデターを起こし、少将だった朴正熙(パク・チョンヒ)が政権を取りました。

彼が特に力を入れたのが日本との国交交渉です。日本から賠償金を得て経済成長の糧にしようとしたのです。

それまで日本と韓国の間では国交交渉が長く続いていましたが、日本の全権大使が「植民地時代に日本はいいこともした」というような発言をして紛糾し、両国の間でなかなかまとまらなかったのです。

しかし、朴正熙は早期の成立を望んでいました。

 

文=康 熙奉(カン ヒボン)

出典/『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉〔カン・ヒボン〕 発行/勉誠出版)

コラム提供:ロコレ
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2016.05.04