「コラム」韓流ファンのための「日韓・近現代史」/ 第1回 明治維新後の日本と朝鮮半島

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エンタメを通して韓国に親しみを感じている韓流ファンの中には、歴史に興味を持っている人が多いようです。日本と韓国の間では、過去にどんな歴史があったのでしょうか。そこで、明治維新後から現代までの日韓の歴史について振り返っていきましょう。

 

日朝修好条規を締結

徳川幕府が倒れて明治の世となり、維新政府は富国強兵路線を突き進みました。やがて日本は朝鮮半島での権益に目をつけたのです。

先兵のように動いたのが日本の「雲揚号」です。この軍艦が1875年9月に江華島(カンファド)の沖で挑発的な行動を取ったことで軍事衝突に発展しました。これが江華島事件です。

日本の武力は、朝鮮王朝にとって脅威でした。ゆえに、朝鮮王朝は強く開国を迫る日本の圧力に抗うことができません。その結果、1876年2月に日本と朝鮮王朝の間で日朝修好条規(江華条約)が締結されました。

第1条には「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」と規定されています。条文には確かに“平等”という文字がありますが、現実的にこの条約は“不平等”そのものでした。

それでも日本が“朝鮮国ハ自主ノ邦”と規定したかったのは、清が宗主国でないことを強調したかったからです。そのほうが、日本が朝鮮半島に干渉するうえで都合が良かったのです。

さらに、この条約には「主要な港の開港」「自由貿易の推進」「日本領事による治外法権」などが織り込まれていました。日本の武力に屈した朝鮮王朝は、自国に不平等と知りながら条約を結ばざるをえなかったのです。

開国に踏み切った朝鮮王朝は以後、アメリカ、フランス、ロシアとも通商条約を結びました。ただし、いずれも武力で威嚇された不平等条約でした。

 

激しい主導権争い

日本や欧米列強の圧力に屈した朝鮮王朝。近代化の必要性を痛感し、まずは軍隊の改革に着手しました。その結果、旧来の軍隊と、日本や西洋の先進の軍制を取り入れた軍隊に分裂してしまったのです。

不満が募ったのが旧来の軍人たちでした。給料は遅配となり、食事面での待遇も劣りました。怒った旧来の軍人たちが反乱を起こし、王宮や日本公使館を襲撃しました。これが1882年の「壬午(イモ)軍乱」です。

事態は、政治を主導していた明成(ミョンソン)皇后(26代王・高宗〔コジョン〕の正妻)だけでは収拾できなくなりました。頼られたのが、明成皇后との主導権争いで敗れて失脚していた興宣(フンソン)大院君(高宗の父)です。彼が政界に復帰することで反乱は徐々に収束していきました。

しかし、朝鮮半島に平穏な日々は訪れませんでした。「壬午軍乱」に乗じて日本と清が自国の権益を確保しようとして出兵してきたからです。

両国がにらみ合う形になって、対立が深まりました。

その最中に、興宣大院君が清に拉致されるという奇怪な事件まで起きています。そのまま興宣大院君は天津で拘束されました。

この頃の朝鮮王朝では、「明治維新に成功した日本に学ばなければならない」という考えを持った開化派が台頭してきました。中心人物は金玉均(キム・オクキュン)で、彼は日本に留学して福沢諭吉の薫陶を受けていました。

 

日本と清が対立

1884年12月、開化派は日本の後押しを受けてクーデターを起こし、一時的に王宮を占拠しました。この事件は「甲申(カプシン)事変」と呼ばれています。

王宮を占拠したことでクーデターは成功したように見えたのですが、黙っていなかったのが清でした。

「日本の支援を受けた政変を成功させてはならない」

清が武力で開化派を排除し、王宮占拠も「三日天下」で終わってしまいました(金玉均は日本に亡命したのち、1894年に上海で暗殺されています)。

1885年1月、朝鮮王朝と日本との間で漢城条約が締結されました。これは、前年12月に起きた甲申事変の事後処理に関する条約でした。

実は、甲申事変の際に日本公使館が放火されて、日本人に多数の死傷者が出ていたのです。日本側は朝鮮王朝に強く抗議して、13万円(当時としては大金)の賠償金を約束させました。

とはいえ、甲申事変を終結させた清は朝鮮王朝に絶大な影響力を及ぼし、朝鮮半島での日本の立場は苦しくなる一方でした。

外交に活路を見いだそうとした日本は清と粘り強く交渉して、1885年4月に天津条約を結びました。この条約で、「朝鮮半島から日本と清の両国軍隊が撤退すること」「朝鮮半島に再び兵を出すときは相互通告すること」が取り決められました。

その年の夏に、興宣大院君がようやく清から帰国しました。それはすなわち、朝鮮王朝内部で政治の主導権争いが再び激化することを意味していたのです。

とばっちりを食うのは常に農民です。なんら適切な農業政策を実行できない政権の腐敗によって農民の生活は困窮するばかりでした。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

出典/『宿命の日韓二千年史』(著者/康熙奉〔カン・ヒボン〕 発行/勉誠出版)

コラム提供:ロコレ
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2016.05.01