「コラム」【史実検証】『イニョプの道』の時代設定に迫る

4月からNHKBSプレミアムで放送が始まった時代劇『イニョプの道』。同枠での韓国ドラマの放送は、『奇皇后』以来であり大きな注目を集めている。ドラマをより楽しむために作品の時代背景をおさらいしよう

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「王子の乱」

『イニョプの道』は、韓国ケーブルテレビ局JTBCが2015年に放送した本格時代劇。視聴率1%を超えれば成功と言われるケーブルテレビ界において、最高視聴率4.7%を記録した人気作だ。

本作は、両班の令嬢だったイニョプ(チョン・ユミ)が、家系が没落した影響で下女に転落することで物語が動き出す。

舞台となる時代は、518年の歴史をもつ朝鮮王朝の建国初期。『イニョプの道』の舞台設定に大きく関わるのが、初代王・李成桂(イ・ソンゲ)と、5男・芳遠(バンウォン)の確執である。当時の情勢を軽く見てみよう。

1392年、大規模な軍事クーデターによって高麗の実権を掌握した武将・李成桂は、自ら初代王となり朝鮮王朝を建国した。

しかし、57歳で王となった彼には、後継者の指名が急務だった。

当時、李成桂には最初の妻との間に6人、後妻との間に2人の息子がいた。前妻の子たちは父が新しい王朝を建国する大きな助けとなった。特に五男の芳遠の活躍は目覚しく、誰もが芳遠が王になるに違いないと考えていた。

しかし、李成桂は後妻との間に生まれた八男を後継ぎに指名する。この決定に、芳遠は激しい怒りを抱いた。この際に、八男を支持したのが、李成桂の側近である鄭道伝(チョン・ドジョン)だった。

芳遠と鄭道伝の対立は臣下たちを巻き込み深刻化していき、宮中は常に緊張した空気が漂うようになった。

1398年、鄭道伝は芳遠たち兄弟を排除しようと計画を練るが、それは芳遠に気付かれていた。芳遠は先手を打つように私兵を率いて鄭道伝たちの屋敷に襲い掛かると、異母弟たちごと命を奪ってしまう。

この事件は、王子たちが後継ぎの座を巡って争った「王子の乱」と呼ばれた。

父と子の確執

「王子の乱」に一番衝撃を受けたのが、末の子を可愛がっていた李成桂であり、彼は失意のまま王位を退いた。朝鮮王朝設立からわずか6年のことだった。

政敵たちを排除した芳遠だが、彼は自ら王位に就かずに二男の芳果(バングァ)を次の王に推薦した。

自ら即位して簒奪者として非難されるのを避けるためだ。

こうして、二男の芳果は2代王・定宗(チョンジョン)として即位するが、実質的に権力を握っていたのは芳遠だった。

その2年後の1400年、四男の芳幹(バンガン)が「自分も王になりたい」という欲に駆られ私兵を強化していた。それに気づいた芳遠は、芳幹との戦いを決意する。こうして、2人の王子による争い「第二次王子の乱」が勃発した。戦いは当時最大の武闘派である芳遠の圧勝に終わった。

敵対勢力がなくなったのを感じた芳遠は、定宗を引退させて3代王・太宗(テジョン)として即位する。

太宗はまず、第一次王子の乱によって混乱してしまった民心を落ち着かせることに尽力したが、父である李成桂は太宗を王とは認めなかった。それどころか、王の証である玉璽(ぎょくじ)を持ったまま朝鮮半島北部の咸興(ハムン)にこもってしまう。

李成桂から王と認められたい太宗は、父の下へ何人もの使者を送るが、全員が殺害されて帰らぬ人となった。このことから、韓国では今でも行ったきり戻ってこない人のことを「咸興差使(ハムンチャサ)」というようになった。

しかし、李成桂は自身のわがままのために多くの命を奪ったことを次第に後悔するようになり、自らが信頼していた側近の無学(ムハク)大師の説得を受けて都に戻って太宗に玉璽を渡す。それ以降は政治にかかわらず隠居して、1408年に世を去った……。

このように、初期の朝鮮王朝は、建国の祖・李成桂と、その息子である芳遠の関係がよくなかった。その影響は臣下たちの去就にも大きく影響した。

没落と栄達。

当時の朝鮮王朝では臣下たちの勢力も簡単に変貌してしまう混迷の時代だったのだ。こうした知識をもっていれば、『イニョプの道』がより面白くなるはずだ。

コラム提供:ロコレ
http://syukakusha.com/

2016.04.24