「コラム」日本のコリアをゆく/広島・鞆の浦編2

DSCF0783「日東第一形勝」
今でも日本の各地に朝鮮通信使の足跡が残っているが、その中でも鞆の浦の福禅寺は特に重要である。なぜなら、一行はここから見た瀬戸内海の景観を愛し、様々な書を残しているからだ。

その文面から、当時の朝鮮通信使の人たちの心情を察することができる。まさに歴史の証言を保管する場所だといえるだろう。

もともと、福禅寺は平安時代の天暦年間(950年頃)に創建されたといわれている。鎌倉時代から室町時代に隆盛を誇った寺で、場所柄、航海安全を祈願する人が多かった。江戸時代も寺格が高く、朝鮮通信使の宿舎や休憩場所として重宝された。

今は本堂にその面影があるとは言いがたいが、海に面した大広間を訪れる人は少なくない。なんといっても、大広間から瀬戸内海の風光明媚な景観が一望できることが大きい。朝鮮通信使の一行もその景観をいつも絶賛していた。それが、「日東第一形勝」という揮毫につながったのだが、それが生まれた際の出来事が記録されている。

それは、1711年に来日した第8回目の使節団のときだった。正使は趙泰億(チョ・テオク)、副使は任守幹(イム・スガン)、従事官は李邦彦(イ・バンオン)である。

彼らは酒を飲みながら談笑にふけっていた。話題は、道中で最も景色が美しい場所について及び、大方の意見では、福禅寺から見た瀬戸内海の風景が一番だということになった。けれど、「江戸までの遠路をあわただしく往復している身。ゆっくりと景色を愛でる余裕がないとはいえ、他にもこの景色に対抗するところがあったのでは?」という声も起こっていた。

朝鮮通信使が見た風景もこれとほぼ同じだっただろう

朝鮮通信使が見た風景もこれとほぼ同じだっただろう

まるで山水画
正使を含めて賛成派の8人が言った。

「十六目で見ると、ここがやっぱり一番だ」

そう断言したのだが、通詞(通訳)は「十六目」の意味がわからなかった。それを尋ねると、「それは8人のことだ」と言って一同は大笑いしたという。

そして、正使らは従事官の李邦彦に命じて、「日東第一形勝」と書き留めさせた。この場合の日東とは日本のことである。

この逸話によって、鞆の浦は景勝地として有名になった。それほど「日東第一形勝」の揮毫は印象深かったのだが、実際は3枚の紙を継いで墨で書かれている。

最初は額に入れて部屋に掲げていたが、年月とともに傷んでしまったので、木額に模刻して原紙は丁重に保管するようになった。つまり、私が見ていた「日東第一形勝」の扁額は、後に作られたものなのである。

それでも、書体の妙を十分に味わうことはできる。実際、大広間の窓側に座して海を見ると、狭い水路の向こうに、重なるように島々が見えている。正面の島が弁天島と仙酔島、その右に玉津島が浮かんでいる。

特に、窓枠を額縁に見立てると、すばらしい山水画を見ているような錯覚に陥る。「日東第一形勝」と称賛する気持ちもよくわかる。

「對潮樓」と書かれた扁額

「對潮樓」と書かれた扁額

扁額に残された漢詩
福禅寺の大広間には、「日東第一形勝」の他にも、朝鮮通信使の一行が書き残した様々な書が扁額となって残っている。

その中でもひときわ目を引くのが、「對潮樓」と大書きされた扁額だ。その書が揮毫されたのは、1748年の第10回目の朝鮮通信使のときだった。

福禅寺の大広間を「對潮樓」と呼んだのは、そのときの正使の洪啓禧(ホン・ゲヒ)だった。彼の息子の洪景海(ホン・ギョンヘ)に、2枚並べて大きくなった紙に「對潮樓」と揮毫させた。

そして、「海上から見えるようにしてほしい」と希望したという。そこで寺主は、この書を寺の外の海側に掲げた。

しかし、潮風で早く傷むのは目に見えている。そこで、福山藩主の阿部正福は書を扁額に仕立てて寺に寄贈したという。

以来、福禅寺の大広間は「對潮樓」と命名され、瀬戸内海の絶景が見える客間として有名になったのである。

この「對潮樓」には、前述した李邦彦や任守幹の漢詩も扁額となって飾られている。

李邦彦の漢詩には「天涯の鞆の浦を去るのは惜しい。さあ、樽前に集まり、勢い盛んに柏酒の杯を傾けよう」という一節があった。樽が出るほどだから、相当な酒量であろう。往時を想像して、こちらまでちょっとホロ酔いになるかのようだ。

一方、任守幹は次のように漢詩を詠んでいる。

「遠く隔たった異国は春にならんとし、雁は帰ろうとしている。幸いに、諸公とこの会に同席している。夜どおし深杯を尽くし、飲むことを妨げるものはない」

こうした一節を見ても、朝鮮通信使の一行がいかに歓迎され、夜遅くまで祝宴が催されたかがわかる。

(次回に続く)

(文=康 熙奉〔カン ヒボン〕)

コラム提供:ロコレ
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2016.04.22