『テバク』の第3話はめまぐるしい展開だった。それもそのはず。朝鮮王朝の王宮内で一番激しい動きを見せたのが、第3話の前半が描いていた1694年だからだ。この年には本当にいろんなことがあった。それは何だろうか?
張禧嬪が王妃から降格
1694年の春には、19代王・粛宗(スクチョン)の正室だった張禧嬪(チャン・ヒビン)が側室に降格している。
もともと、1689年に当時の正室だった仁顕(イニョン)王后が廃妃になったために、側室だった張禧嬪が代わって王妃になったのである。その5年後に、今度は張禧嬪が正室から転落し、再び仁顕王后が王妃に戻っている。この仁顕王后は『テバク』では登場していない。物語の本筋からはずれていると見なされたのだろう。
『テバク』第3話を見ていて面白かったのは、張禧嬪が淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏をいじめて大きな甕(かめ)に閉じ込めるところだ。粛宗の助けがあって淑嬪・崔氏は助かるのだが、歴史的にも張禧嬪が妊娠中の淑嬪・崔氏を甕に閉じ込めたというエピソードが残っている。信憑性にはかなり疑問が残るのだが……。その話を『テバク』でも取り入れていたのである。
張禧嬪が正室から降格したとき、彼女が産んだ粛宗の息子は6歳だった。後の20代王・景宗(キョンジョン)である。『テバク』の中でも幼い姿で登場していた。
やがて粛宗は淑嬪・崔氏を冷遇した(写真/韓国SBS『テバク』公式サイトより)
張禧嬪が死罪になった
1694年の春に張禧嬪は正室から降格したが、その年の秋に淑嬪・崔氏は粛宗の息子を産んでいる。
この王子は粛宗から見れば三男にあたる。
長男は張禧嬪が産んだ王子で、すでに世子(セジャ)になっていた。世子というのは国王の正式な後継者で、今で言えば皇太子に該当する。
ちなみに、二男は1693年にわずか2カ月で早世した永寿君(ヨンスグン)だ。『テバク』ではこの永寿君が死んだのではなく捨てられたのだ、という設定にしている。それがテギルというわけだ。
また、淑嬪・崔氏は粛宗の三男を産んだのだが、異母兄がいたので世子にはなれなかった。それがヨニングンである。最終的にヨニングンは景宗が亡くなったあとに21代王・英祖(ヨンジョ)として即位した。それは1724年のことだ。
『テバク』第3話の後半では、1694年から20年後が描かれて、主人公のテギルが大人に成長していた。しかし、その20年の間には、さらにいろいろな出来事があった。
大きな事件があったのは1701年だ。復位した仁顕王后が夏に亡くなると、張禧嬪が呪い殺すための儀式をしていたことが発覚。結局、張禧嬪は死罪となってしまった。
その際、張禧嬪の所業を粛宗に知らせたのが淑嬪・崔氏だと言われている。
仁顕王后が亡くなり、張禧嬪が死罪になったあとでも、粛宗は淑嬪・崔氏を正室にしなかった。それどころか冷遇するようになった。強い不信感を持っていたからだと推定される。
テギルが20歳になったと設定されている1714年には、粛宗も淑嬪・崔氏も存命だった。『テバク』では、その後の2人がどのように描かれるのだろうか。
(文=康 熙奉〔カン ヒボン〕)
コラム提供:ロコレ
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