15代王・光海君(クァンヘグン)によって最愛の弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)を殺された貞明(チョンミョン)公主。彼女自身も王女から庶民に格下げとなり、母の仁穆(インモク)王后と一緒に西宮(ソグン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)に幽閉されてしまった。
西宮と呼ばれた由来
豊臣軍の朝鮮出兵の際に、都の漢陽(ハニャン)にあった王宮の数々が大きな被害を受けた。正宮の景福宮(キョンボックン)は全焼し、以後も放置の状態となった。この景福宮が再建されたのは1865年のことで、全焼から273年後のことである。
1508年に王となった光海君は、景福宮の東側に位置していた昌徳宮(チャンドックン)を整備して、そこで王としての執務を行なった。
仁穆王后や貞明公主が幽閉された離宮は昌徳宮から見れば西側にあったので、西宮と呼ばれるようになったのである。
西宮で暮らした仁穆王后と貞明公主の生活は不便きわまりなかった。
何よりも、光海君の指示が過酷だった。西宮の門をすべて閉鎖してしまい、最上部に刺(とげ)を付けた塀で西宮を囲み、外部とまったく接触できないようにした。
しかも、それまで仁穆王后と貞明公主が使っていた家財は没収され、日常の生活用品も調達できない有様だった。そのうえで、餓死しない程度のわずかな食糧を支給されるだけだった。
とにかく、西宮での生活は困難をきわめた。仁穆王后と貞明公主は、巨大な監獄に押し込められているも同然だった。
宣祖の正室として優雅な生活を享受してきた仁穆王后。彼女は幽閉の屈辱から何度も自害を試みようとしたが、結局はそれができなかった。
「もし自分がいなくなったら、娘の貞明はどう生きればいいのか」
そのことが頭を離れなかった。
永昌大君を失って悲嘆に暮れた仁穆王后。娘までも失うわけにはいかなかった。
「娘のためにも生きなければ……」
仁穆王后は苦難の生活の中で、何よりも貞明公主のことだけを考えていた。
そんな仁穆王后にとってわずかな救いとなったのは、貞明公主が書を愛していたことだった。
実は、14代王・宣祖(ソンジョ)と仁穆王后は、優れた書をしたためることでともに評価が高かった。その2人の血を受け継いだ貞明公主。書の才能が抜きんでていた。
生活が苦しく日用品が不足していたのだが、その中でも貞明公主は何とかやりくりして紙と墨を用意し、長い時間、書と向き合った。
それは、母である仁穆王后をなぐさめるという目的もあった。
仁穆王后は娘の貞明公主が筆を取っている姿を見るのが大好きだった。そのことを貞明公主はよく知っていたので、母を喜ばせたい一心で書の時間を増やしていた。
才能があるだけに、貞明公主はすばらしい書を残している。
「華政」
それが、貞明公主の有名な書の文字である。
「華やかな政治」という意味だ。ドラマ『華政』も、この文字をタイトルにしているのである。
彼女は幽閉中でも、決して人生を諦めなかった。普通の公主であれば、10代の前半で名家の御曹司と結婚するのが常だったが、貞明公主はそんな境遇ではなかった。結婚どころか、いつ光海君が刺客を送ってくるともかぎらなかったのだ。
そんな苦しい境遇の中でも、貞明公主は希望を捨てなかった。
「華政を実現できるときがきっと来る」
そんな思いで、苦しい監禁生活に耐えたのである。
(第4回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム:ロコレ提供 http://syukakusha.com/
歴史に生きた貞明公主「第1回・誕生」