「コラム」燕山君はどれだけひどい暴君だったのか

9代王の成宗(ソンジョン)は数々の政治的な業績をなし遂げ、名君に列せられるほどの評価を受けた。ただ、女性との間で騒動をいくつか起こしている。その最たるものが正妻の尹(ユン)氏を廃妃(ペビ)にした事件だった。この尹氏が産んだ息子が燕山君(ヨンサングン)である。

 

「朝鮮王朝実録」で書かれた悪評
事件は1479年に起こった。「嫉妬深い性格」「成宗の顔をひっかいた不敬」を非難されて、王妃だった尹氏は王宮から追放されてしまった。さらにその3年後には死罪となっている。
この事件はのちに禍根を残した。尹氏が産んだ燕山君が成宗の後に王位に就いたことがきっかけだった。この燕山君をドラマ『七日の王妃』ではイ・ドンゴンが演じていた。
「朝鮮王朝実録」で燕山君は辛辣(しんらつ)に書かれている。
「母親に似て嫉妬深くて曲がった性格で、知恵深いところもなかった。優秀な教師がそばについていても、物事の理解力が足りなかった」
「成宗は『勉学にまったく力を入れず、いつまでも愚かなのはなぜだ?』と世子(セジャ/燕山君のこと)をよく叱った。すると、世子は成宗に会うのを避けた。たとえ呼ばれても、からだが痛いと言い訳をして、行かないことがしばしばだった。成宗の側近が様子を見に行くと、世子は『病気じゃなかったと告げ口をしたら、お前を殺してやる』ときつく叫んだ」


「成宗は世子を廃したいという気持ちが強かったが、他の嫡子がいなかったことと、王子が幼くて拠り所がないことを哀れに思い、それができなかった」
このように、成宗が世子を交代させなかったことが、後の大虐殺事件を生んでしまったのだ。
実際、成宗の後を継いで1494年に10代王となった燕山君は、即位当初はおとなしくしていたが、慣れるにしたがって奇行を見せ始めた。
王宮の庭園にいた鹿をよく撃ち殺してその肉をむしゃぼり食べたり、妖(あや)しげな女たちと放蕩三昧の日々を送ったりした。
もちろん、周囲から諫言(かんげん)を浴びたが、燕山君は憤慨して逆に言動が過激になった。
そんな暴君に目の敵(かたき)とされたのが、道義と名分を重んじる士林派の高官たちだった。成宗時代に冷遇された一部の官僚にけしかけられた燕山君は、何かと口うるさい士林派を徹底的に弾劾した。
これは戌午の年(1498年)に起こったので「戌牛士禍(ムオサファ)」と呼ばれている(「士禍」というのは、朝鮮王朝時代前期に派閥闘争などが原因で多くの官僚・学者が犠牲になった事件のこと)。

その6年後にはさらにひどい出来事があった。甲子の年(1504年)に起こったので「甲子士禍(カプチャサファ)」と呼ばれているが、この事件では燕山君の母(廃妃の尹氏)の死罪に関わった人たちが根こそぎ虐殺された。すでに亡くなっている人は墓をあばかれて首をはねられた。
これほどの悪政が続けば、庶民も黙っていられない。燕山君を批判する文書が市中に掲げられたが、それに怒った燕山君はハングルの使用を禁止する暴挙に出た。もはや常軌を逸しているとしか言えない。
こんな暴君だけに、1506年にクーデターを起こされて廃位になったのも仕方がなかった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

 

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コラム提供:韓流テスギ

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2023.09.20