奇氏一族の初代は?
人口が一番多い「金(キム)」ともなると本貫は60くらいあるし、「李(イ)」にいたっては本貫が70もある。
それほど、同じ姓でも一族の流派は多岐にわたっているのだ。
しかし、「奇」の本貫は「幸州」だけである。わかりやすく言えば、本貫が同じであれば韓国では同族と見なされるので、「奇」という姓を持った人(奇氏)はすべて同じ一族となる。
この奇氏一族の初代は、箕子(キジャ)朝鮮の48代王子と称される奇友誠(キ・ウソン)である。この箕子朝鮮は、紀元前195年に衛満(ウィマン)朝鮮が建国される前に朝鮮半島を統治していた国だ。
とはいっても、箕子朝鮮は考古学的にその存在がはっきりと立証されているわけではない。あくまでも「あっただろうと推定される国」なのだ。その箕子朝鮮の48代王子が始祖、というのが奇氏一族が誇りにするところである。
奇氏一族の族譜(チョッポ/その一族の歴史と人物を記した家系書)である「幸州奇氏譜」によると、箕子朝鮮の最後の王の準王(チュンワン)の子孫であった友諒(ウリャン)、友誠(ウソン)、友平(ウピョン)の3兄弟がそれぞれ奇氏、鮮于(ソンウ)氏、韓(ハン)氏の始祖になったという。この3つの姓は今でも韓国で最古の姓に該当すると言われている。
その1つに入っているということが奇氏一族の自慢だ。
この奇氏一族が朝鮮半島の歴史の表舞台で大活躍したのが高麗王朝時代だった。
まず、高麗王朝の17代王・仁宗(インジョン)の在位時代(1122~1146年)に政治の中枢で手腕を発揮した奇純祐(キ・スンウ)が有名だ。
その奇純祐の孫にあたるのが奇允偉(キ・ユンウィ)と奇允粛(キ・ユンスク)であり、この2人は大将軍として23代王・高宗(コジョン)の在位時代(1213~1259年)に女真族(旧満州に住んでいた民族)の侵攻や地方豪族の反乱を防いで大きな戦功をあげている。
この他にも、高麗王朝の後期に奇氏一族から多くの将軍が出て、国家の危機を救っている。
なぜ、奇氏一族はこれほど有能な人材を輩出できたのか。
それは古代からの名門だった奇氏一族が、家門を守ってそれぞれに結束して子弟の教育に熱心に取り組んだからである。
その恩恵を奇皇后自身も享受している。
彼女は貢女(コンニョ)として元の国に渡らざるをえなかったが、奇氏一族の伝統を受け継いで聡明な考え方ができたからこそ、異国で皇后の座に就くという快挙を成し遂げたのである。
韓国の姓氏解説書の「韓国姓氏大観」(1971年発行)は、奇皇后について次のように記述している。
「奇皇后はとても美しく英明であったと伝えられている。当時、元の高官たちは高麗の美人たちを連れていって妻や妾にする慣習を持っていた。そのときの高麗の美人たちは高麗の服飾を固守しており、一時は元で新しいタイプの美人が“高麗様子”と呼ばれ、特に宮中で大いにもてはやされた」
こうした記述を見ても、奇皇后を初めとする高麗の女性たちがいかに元の国に影響を与えたかがわかる。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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