1392年から1910年まで続いた朝鮮王朝では、国教として儒教が絶大な影響力を誇った。この場合の儒教というのは、具体的に言うと朱子学であった。この朱子学の倫理観が朝鮮王朝の価値観を決定づけていたと言っても過言ではない。
体制維持の根拠
朱子学は、中国の宋の時代に興った儒教の一派で、朱子(1130~1200年)によって集大成された。
それまで教訓的な説話が多かった儒教の世界に哲学的な深みを持ち込んだのが朱子学であり、儒教の理論化に大きく貢献している。
この朱子学が朝鮮半島には高麗王朝の後期に伝わっており、支配層の間で徐々に受け入れられるようになっていた。
朝鮮王朝は開国当初からこの朱子学に注目し、人々を統治する際の精神的支柱として活用した。
特に、政治と制度を実際に取り仕切った両班(ヤンバン/朝鮮王朝の貴族階級)にとって、高尚な人間が民を治めることを認める朱子学は重宝できた。いわば、体制維持の根拠を与えてくれる「お墨付き」でもあったのだ。
朱子学が全土に普及するうえで大きかったのは、科挙の試験科目に朱子学の教義を問うものが多かったことだ。
官職を求める利発な若者たちがこぞって朱子学を熱心に学ぶようになり、その影響力は飛躍的に高まった。
ただ、朱子学一辺倒の風潮は偏狭な人間を数多く世に出してしまった。非常に理屈っぽい学問をみんなが一斉に学んだがゆえに、他の多様な学問を許さないような空気が生まれるに至ったのだ。
朝鮮王朝の病巣とも言われた「党争」にしても、自己の主張に凝り固まった一派が他の流派の存在を否定し続けるところから深刻さを増していった。朱子学が、寛容でない政治闘争を生み続けてしまったことも事実なのである。
なお、現在の韓国で使われている紙幣の千ウォン札と5千ウォン札の肖像画は、ともに朝鮮王朝時代の儒教の大学者である。それほど、儒教を究めた人は朝鮮半島で偉人とされたのである。
特に、朝鮮王朝でも後期になると、王朝の上層部の間で儒教における「礼論」(礼節に関する論理)が非常に細かく論議されるようになった。中でも重視されたのが、父母や目上の人に対して礼節を守ることだった。
一例を挙げよう。端宗(タンジョン)は1452年に6代王として即位したが、叔父であった首陽(スヤン/後の7代王・世祖〔セジョ〕)に王位を強奪され、最後は平民に格下げとなって1457年に死罪となった。以後もずっと名誉は回復されていなかった。
しかし、19代王の粛宗(スクチョン)の治世となってから、「王位に就いていた方に対してあまりに無礼」という礼論が起こり、1698年になって復位の栄誉を得た。つまり、死後241年を経て、ようやく王として祀られることになったのである。そして、「端宗」という尊号を贈られた。
こうした事例は、過去に礼節を欠いていることがあれば積極的に見直す、という風潮が生まれた結果である。
以上のように、朝鮮王朝の後期には「儒教を通した歴史の見直し」が積極的に行なわれた。まさに、儒教こそが絶対的な価値観だったのである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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