明と豊臣軍の間で続いていた和睦交渉の結果、最終的に豊臣秀吉は次のような条件を明に突きつけた……「明の皇帝は皇女を日本の天皇の后にする」「日本と明の間で途絶えている通交を再開させる」「朝鮮半島の中で北の4つの道と都の漢陽を朝鮮王朝に返す」。明の皇帝が承諾する可能性はなかった。
激怒した秀吉
早く戦乱を終わらせたかった沈惟敬と小西行長は2人で討議して、行長の家臣であった内藤如安を正式な使節であるかのように装って北京に派遣した。
内藤如安は明の皇帝に対して次のように申し入れた。
・日本の軍勢は朝鮮半島から撤退する
・日本は朝鮮王朝と和解して、明の属国となる
この提案に明の皇帝は満足し、日本に対して正式な冊封使を送った。
その冊封使は来日して1596年9月に大阪城で秀吉に面会した。その場で秀吉は、明の皇帝から金印と冠服を受けたが、国書には「特に爾(なんじ)を封じて日本国王となす」と書いてあるだけで、秀吉がとうてい満足できるものではなかった。
秀吉が激怒して和睦の交渉は決裂した。
1597年(慶長2年)2月、秀吉は再び朝鮮半島に兵を送った。休戦を経て「慶長の役」が始まったのである。
今度は14万という大軍となり、朝鮮半島の南4道を占領することを目的にしていた。
「文禄の役」では朝鮮半島全土に戦地を拡大しすぎた、という反省に立った戦略変更だった。
豊臣軍はまず、朝鮮半島の南東地域にあたる慶尚道(キョンサンド)の沿岸に城を造った。そこを拠点として最大の穀倉地帯である全羅道(チョルラド)を手中に収めることを狙ったのだ。
1597年7月、豊臣水軍は元均(ウォンギュン)が率いていた朝鮮王朝水軍を慶尚道の巨済島(コジェド)で破った。その当時、名将・李舜臣(イ・スンシン)は嫉妬にかられた奸臣の策略によって獄につながれていた。代わって元均が水軍を統率したが、李舜臣とは能力が違いすぎて豊臣水軍に歯が立たなかった。
苦境に陥った水軍に再び李舜臣が戻ってきた。彼が指揮官になってからは逆に豊臣水軍が劣勢に追い込まれていった。
陸上では、全羅道の南原(ナモン)が激戦地になっていたが、全体として戦いは膠着状態に入っていた。
朝鮮王朝と明の連合軍は、豊臣軍の象徴ともいえる加藤清正を討つべく、彼が拠点にしていた蔚山(ウルサン)の城を攻めた。
1597年12月、朝鮮王朝と明の連合軍は蔚山城を包囲し、外部と城をつなぐ水道を遮断した。そのあおりで蔚山城にいた兵士たちは食糧と水を得られなくなり、餓死を覚悟しなければならなかった。それでも必死に耐えた。
1598年1月になってようやく毛利秀元の軍勢が加勢に来た。彼らは、蔚山城を包囲している朝鮮王朝と明の連合軍を背後から攻め、加藤清正の軍勢を蔚山城から救い出した。それでも豊臣軍の苦戦は免れなかった。
豊臣軍の間に厭戦気分が広がったが、戦を終結させたのは「秀吉の死」だった。彼は1598年8月に世を去り、もはや豊臣軍が朝鮮半島にいる意味もなくなった。
極秘のうちに撤退指令が出された。豊臣軍の各大名が朝鮮半島を引き払うとき、李舜臣に率いられた水軍は執拗に豊臣軍を攻めた。そのあおりで、全羅道の順天(スンチョン)にいた小西行長軍の退却路が完全に封鎖されてしまった。
「このままでは全滅が避けられない」
小西行長が悲嘆に暮れたとき、救いの神となったのが島津義弘だった。彼は慶尚道の露梁津(ノリャンジン)に朝鮮王朝の水軍を誘い込んだ。
この海戦で島津軍は大きな損害をこうむったのだが、逆に小西行長軍は順天から逃れることができた。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム提供:韓流テスギ