百済から日本に渡来してきた人々の多くが定住した場所が近江であった。近江というのは江戸時代までの国名だが、近淡海(ちかつあわうみ)という古称に由来している。この場合の淡海とは琵琶湖のことで、近江は「琵琶湖の近くの土地」という意味であった。
百済系の渡来人
古代には近江に渡来人が多く住んでいた。
7世紀には朝鮮半島から渡ってきた人たちが数百人単位で近江の各地(特に神崎郡や蒲生郡)に定住している。
神崎郡や蒲生郡は、古代の一時期まで蒲生野と呼ばれる原野であったらしい。とはいえ、水が豊かな琵琶湖が近く、なおかつ広い平野であったために、蒲生野が耕作に適していることは間違いなかった。
朝廷は、渡来人の中でも特に百済系の人たちを近江に住まわせている。百済系は特別待遇だったのだが、そこにはどんな理由があったのか。
当時、高句麗系の人たちは東国に配置されることが多かった。
その頃の東国はまだ未開の地であり、高句麗系の人たちは関東の開拓に従事させられたのだ。
その一方で、朝廷は百済系の人たちを都から近い近江に居住させ、耕作に適した土地を与えている。高句麗系の人たちとは扱いが違ったわけだが、それは百済系の渡来人やその子孫がすでに朝廷で有力な地位を得ていたからである。
その恩恵で、新しくやってきた百済系の渡来人も優遇され、近江に土地を得て大いに勢力を伸ばした。
実際、百済寺を初めとして、近江には渡来人に関係した史跡が今も数多く残っている。それだけではない。近江といえば、江戸時代の大商家を数多く生んだ「近江商人」が有名だが、「文化度が高く計算能力に優れた近江人の気質の根源には渡来人がある」という言い伝えが長くこの地に残っていた。そういう意味でも、近江という土地は渡来人と切っても切れない関係を持っていた。
そうした渡来人の足跡を辿る中で特に注目されるのが石塔寺(いしどうじ)である。そこには、渡来人が築いたとされる巨石の石塔がある。
石塔寺は、近江鉄道の桜川駅から徒歩で40分ほどの距離にあった。
入り口には長い石段が見えている。石段の右側に山門があり、その奥が本殿になっているのだが、まず石段を上っていった。
158段の石段を上がると、巨石を積み上げた三重の塔が見えた。そのまわりは、おびただしい数の小さな石仏が囲んでいた。
三重の石塔を構成している巨石は、そこいらに転がっているようなものではなく、特別な地で産出されたものであろう。そんな選りすぐりの巨石を山の上に運ぶのは、今でも難儀するはずで、古代の一時期となれば、国家事業に匹敵するほど大変なことではなかったのか。
何のために、そこの巨石を運ぶ必要があったのか。
仮に、近江の地に渡来人が数多く住み、この広い平野部を耕作に適した農地に変えていったとすれば、その功労者を祀ったものかもしれない。
ただ、この石塔の積み上げ方は、日本ではあまり見られないものであり、むしろ韓国で、これと似たようなものをいくつか見たことがある。
朝鮮半島では、もともと巨石を積み上げて慰霊の場所としたり願いごとをしたりする風潮がある。
実際、今の韓国でも石を積み上げた場所を神聖視している。
それは、古くから朝鮮半島に根付いた土着的な習慣なのだが、この石塔寺の三重の塔も、そんな役割を持っていたのではないかと推定される。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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