「コラム」歴史に残る重要な出来事/第11回「太宗の剛腕」

ドラマ『龍の涙』で太宗を演じたユ・ドングン

 

朝鮮王朝3代王・太宗(テジョン)は、初代王・太祖(テジョ)の五男として生まれたが、後継者に指名されなかったことで「第一次王子の乱」を起こした。その後、彼はどんな行動を取ったのか。

 

「第二次王子の乱」勃発
芳遠(バンウォン)は、父親の太祖が退位してからいきなり王になったわけではない。2代王・定宗(チョンジョン)として即位したのは、二男の芳果(バングァ)だった。この定宗の役目は、「第一次王子の乱」で起きた骨肉の争いのほとぼりを冷まして、すみやかに王位を譲ることだった。
しかし、兄弟の中で思わぬ揉め事が起こる。四男の芳幹(バンガン)が王の座を狙って、芳遠の命を脅かし始めた。芳遠は、当然のように迎え撃って鎮圧させた。芳幹はそれによって流罪となった。これが「第二次王子の乱」である。
その後、「もたもたしていると、また王の座を狙うものが出てくるかもしれない」と考えた芳遠。一方の定宗も「このままでは自分の身が危ない」と思っていた。その結果、1400年11月に芳遠が3代王・太宗として即位したが、それは、妻である元敬(ウォンギョン)王后の支えが大きかった。
太宗は、1382年に妻である元敬王后と結婚した。彼女は、政敵などが攻めてきたときに、いち早く知らせて夫を支えた。しかし、太宗が王として即位した途端に冷遇されてしまい、元敬王后の実家は落ちぶれてしまった。その理由は、王朝を長く存続させるために、外戚を排除したからである。


元敬王后の支えがあったからこそ、太宗は王になれたのに、彼は、妻の実家も危険な勢力の1つとして見ていたのだ。その標的となったのが、元敬王后の兄弟である。
彼女の2人の兄と2人の弟は処刑されてしまい、それを知った元敬王后はとても悲しみ、王妃になったことを悔やんだ。太宗の側近たちは、元敬王后の廃妃を望んだ。これまで妻に冷たい態度を取ってきた太宗だが、元敬王后を廃妃にはしなかった。
廃妃にならずに済んだ元敬王后は、実家を滅ぼされたことで寂しい晩年を過ごした。彼女の唯一の救いは、息子である三男の忠寧(チュンニョン)が4代王・世宗(セジョン)として即位したことだ。元敬王后は、それを見届けて1420年に世を去った。
太宗は、王として「国家を安定させるためには、王の力が強くなくてはいけない」という信念を持っていた。彼は、高官や有力貴族を弱体化させるために、私兵の廃止を徹底し、奴婢(ぬひ)の保持にも制限を加えた。さらに、政府の要職を分散させることで、特定の高官に権力が集中しないようにした。
それから、太宗は「崇儒排仏」という政策も行なっている。これは、儒教を崇拝して仏教を排除することだ。この政策は、もともと太祖が進めようとしていたもので、それを息子の太宗が引き継いだのである。結果、仏教寺院は次々に廃止され、寺院が保有していた土地や奴婢は没収された。現代の韓国で、仏教寺院が山の中腹にあるのは、朝鮮王朝時代に市中から追われた名残である。

太宗がこの政策を行なった理由は、仏教寺院が政治に介入しすぎて、国政が乱れてしまった高麗の二の舞になりたくなかったからだ。さらに、太宗は「朝鮮王朝の厳しい身分制度には、人間の序列を決める儒教のほうが合っている」と判断していた。
その後、1418年に三男の忠寧に王位を譲った彼は、王権の行く末を見守りながら1422年に世を去った。
朝鮮王朝の基礎作りに邁進した太宗は、朝鮮王朝27人の王の中で、一番強大な権力を持っていた王だったと言える。

文=康 大地(コウ ダイチ)

 

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コラム提供:韓流テスギ

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2023.06.13