仁粋(インス)大妃は、もともと、7代王・世祖(セジョ)の長男・懿敬(ウィギョン)の正妻である。懿敬は世子(セジャ/王の後継者)だったので、仁粋大妃も本来なら王妃になるはずだったのだが、懿敬が19歳で夭逝したために、それは叶わなかった。
垂簾聴政の指南役
王妃になれなかった仁粋大妃。しかし、彼女が産んだ二男が9代王・成宗(ソンジョン)として即位したために、王の母となり“大妃”の座にのぼった。彼女は王宮の女性の中で特に教養が高く、政治的な判断力にも優れていた。
韓国時代劇『王と妃』の第123話には、12歳で即位した成宗があまりに幼すぎるので、成宗の祖母であった貞熹(チョンヒ)王后(世祖の正妻で仁粋大妃にとって姑にあたる)が垂簾聴政を行なう場面が出てくる。
この垂簾聴政とは、政権運営を代理することを言う。特に、王が幼すぎるときに、その王の母や祖母が政治を代行することを指す。
朝鮮王朝時代には男女が面会することを厳格に規定する例が多く、それは王の代理となる女性にも適用された。
そこで、王の後ろに簾(すだれ)を垂らし、その中に政治を仕切る女性が座るようにしたのである。その様子から“垂簾聴政”という言葉が生まれた。
その垂簾聴政が『王と妃』でも細かく描かれるが、貞熹王后は文字が読めなかったので政治的な指示を出すのもおぼつかなかった。
そこで、貞熹王后の後ろの屏風のさらに後方に仁粋大妃が控え、重要な決断のアドバイスをしていた。
そうであるならば、仁粋大妃が自ら垂簾聴政をすればよさそうなものだが、やはり王の祖母にあたる貞熹王后の立場を尊重しなければならなかった。
垂簾聴政にも別の指南役がいることが高官たちの間で大問題になった。仁粋大妃は批判を受ける形になったが、彼女は強い意思で敵対する勢力をつぶしていった。そのあたりの決断力はまさに“鉄の女”であった。
高い望みを次々に叶えていった仁粋大妃だが、晩年は苦悩が深まった。
暴君として知られる10代王・燕山君(ヨンサングン)は仁粋大妃の孫だが、彼の実母の廃妃・尹(ユン)氏が死罪となったことを恨み、仁粋大妃のせいだと思うようになったのである。
『王と妃』の終盤では、燕山君と仁粋大妃の葛藤が細かく描かれていた。
特に、燕山君が「母の墓前に追悼の酒でも捧げてほしい」と仁粋大妃に命令口調で言うと、彼女が「酒どころか毒薬を捧げてあげようか」と返すところが印象的だ。
この言葉で燕山君は怒り心頭になるのだが、仁粋大妃は堂々としていた。
しかし、現実はどうだったのか。
仁粋大妃は常軌を逸した燕山君から暴行を受けることもあった。それが元で亡くなったというのが通説だ。
栄華を誇った大妃としては、あまりに悲惨な最期であった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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