王は朝鮮王朝において絶大な権力を持つ。しかし、歴代の王にとって悩みの種だったのが、地方の役人たちの不正だった。悪徳役人が監視の目を盗んで私利私欲のために庶民の生活を圧迫することがよくあった。そうした悪徳役人を摘発するために作られた警察官の役職が暗行御史(アメンオサ)だった。
「暗行御史、出頭!」
暗行御史に任命された者には、王の代理の証明として三種の神器が手渡された。暗行御史の公務が書かれた事目(サモク)、死体を検分する時に使うものさしである鍮尺(ユチョク)、駅(地方ごとに置かれた中継所)で馬を自由に借りるときに使う馬牌(マペ)の三つだ。これらは、暗行御史が王の代理であるということを証明する身分証の代わりになった。
様々な特権を与えられた暗行御史は、王の期待に添うために懸命に職務を遂行した。彼らは役人たちの仕事ぶりを確認するために、粗末な服をまとって物乞いに変装することもあった。
暗行御史は役人の不正を見つけると「暗行御史、出頭!」という大きな掛け声をだして一気に突入する。その声を聞いた庶民は喜びの声をあげたし、不正を働いた役人たちは恐怖におののいた。
数多くの武勇伝を残した暗行御史の中で、ひと際輝く実績を持っていたのが朴文秀(パク・ムンス/1691年~1756年)だ。
朴文秀の家柄は代々続く名門だった。
いわば、彼はエリート中のエリートだった。
朴文秀が官職に就いていた時、朝廷内は大きな混乱に包まれていた。21代王・英祖(ヨンジョ)の下で、臣下たちが二つの派閥に分かれて争っていたのだ。
そうした情勢の中で、明るく気の回る朴文秀は、英祖が気が許せる数少ない人物の1人だった。
王の信頼を集める朴文秀も党派争いに巻き込まれ、一時的に朝廷から追い出されたこともあった。
朴文秀は3年間、地方での公務に励みようやく朝廷に戻ることができた。このことを英祖は誰よりも喜んでくれた。
当時、英祖には頭を抱える問題があった。それは、自分の目の届かない地方にいる役人たちの不正であった。英祖はそれらの実態の調査に、自身が最も信頼していた朴文秀を指名した。
こうして朴文秀は暗行御史としての活動を始めた。
朴文秀が初めて赴任したのは、当時もっとも英祖に反抗的だった慶尚道(キョンサンド)だった。
その地で朴文秀は役人たちの不正を暴き、民衆たちの喝采を浴びた。
日ごろから清廉で公平だった朴文秀にとって、暗行御史の仕事はまさしく天職だった。彼は慶尚道から戻った後も、各地を暗行御史としてまわり、多大な成果をあげた。
多くの武勇伝を残したが、もっとも有名なのは、凄まじい豪雨に襲われた地域にいちはやく救援物資を届けたことだ。普通は王の許可が必要なのだが、彼は被災者のことを考えて迅速に行動した。
これは暗行御史としても確実に越権行為だった。しかし、朴文秀は少しも臆することなく信念にもとづいて行動した。
そのおかげで、被災者は餓えの苦しみから解放された。
恩を受けた人々は感謝の気持ちから、朴文秀を讃えた碑を建てた。彼がいかに多くの人たちから慕われていたかがよくわかる。
コラム提供:韓流テスギ