1637年1月、侵攻してきた清に屈伏した16代王・仁祖(インジョ)は、清の皇帝の前で屈辱的な謝罪を行ないました。その代償は大きく、仁祖の3人の息子たちは人質として清に連行されました。長男の昭顕(ソヒョン)世子(セジャ)も長く清に抑留されたのです。
激怒した国王
清の人質になった昭顕世子はどうなったでしょうか。
彼は長い抑留生活を経て1645年に戻ってきました。
さぞかし、やつれているかと思ったら、そうではありませんでした。彼は清に居住している西欧人たちとも交流を深め、自分の世界観を広めて帰ってきました。仁祖への帰国挨拶のときも、いかに外国の文物が優れているかを力説しました。
すっかり人が変わったようになっている昭顕世子に対し、再会できた喜びも失せた仁祖は憤慨します。
「次の王になるべき世子が清への怨みを忘れたばかりか、すっかり外国かぶれしている。こんなことで王朝を守れるのか」
仁祖は激怒していました。
腹にすえかねた彼は昭顕世子に硯を投げつけました。親子の感激の対面も一転して険悪な雰囲気に包まれてしまったのです。
昭顕世子が急死したのはその2カ月後です。
昭顕世子の死因には不可解なことが多く、「仁祖が昭顕世子を毒殺したのではないか」という可能性が高いと思われます。
その根拠になっていたのが、仁祖が昭顕世子の弟の鳳林(ポンニム)に王位を譲りたがっていたという事実です。
実は、鳳林も同じく清の人質になりましたが、彼は昭顕世子とは違って清を憎み続けていました。その点では父と同じでした。
屈辱を晴らしたいと考えていた仁祖が、昭顕世子より鳳林に後を託したくなったというのは、十分に考えられることです。
実際、仁祖は昭顕世子の葬儀をひどく冷遇しました。世子という立場だったのに、まるで末端の王族のような扱いでした。
しかも、本来なら昭顕世子の息子が世子を受け継ぐのが正統なのに、仁祖は昭顕世子の息子3人を流罪にして、世子を鳳林に変えてしまいました。これは、王位継承の原則を引っ繰り返すルール違反です。
仁祖の暴挙は続きます。彼は、「自分を毒殺しようとした」という嫌疑をかけて、昭顕世子の妻を死罪にしています。そこまでして、仁祖は昭顕世子の家族を滅ぼしたかったのです。
この仁祖は1649年に世を去り、鳳林が17代王・孝宗(ヒョジョン)として即位します。
彼の諡には、朝鮮王朝が生活規範の中で最も重視した「孝」が入っています。息子としては、最高の名誉と言えるかもしれません。
実際、孝宗は父の屈辱を晴らそうとしていました。
清への侵攻をずっと狙っていたのです。
しかし、財政事情がそれを許さず、結局は40歳で世を去るまで満願を成就できませんでした。
それで良かったのかもしれません。
清は明に代わって中国大陸を支配する大国になっており、朝鮮王朝が太刀打ちできる相手ではなかったのです。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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