1719年、第9回目の朝鮮通信使に製述官として同行した申維翰(シン・ユハン)は、のちに『海游録』という書物を残している。その翻訳版は、平凡社東洋文庫(姜在彦訳注)に収められていて、それを読むと朝鮮通信使の道中がどんなものであったかが克明にうかがえる。この申維翰も「使館は福禅寺である」と前置きしながら、鞆の浦についてこう記している。
鞆の浦の繁栄
見物の男女は、錦衣を着て、東西に満ちあふれている。そのなかには、商客、倡娥(あそびめ)、富人の茶屋も多く、各州からきた使官が往来し、住舎も繁華にして目に溢れるばかり。これまた赤間関以東の一都会である。海岸は山高く秀でて海に臨み、三面は諸山が相控えて湾をなす。山の根が海に浸っているところは、石を削って堤となし、その平整なること裁断した如くである。松、杉、橘、柚など百果の林が、蒼翠として四方を擁し、それらが水面に倒影す。人みなここにいたると、第一の観なりと主張してゆずらない。
賑やかな町の中で人々はどんな風に朝鮮通信使を迎えたか。申維翰は「見物の男女は、錦衣を着て」と書いている。これは、最上級のもてなしではなかったのか。
遠い異国から来た珍しい使者たちに対し、地元の人たちが敬意を寄せている雰囲気が如実に感じられる。
さらに、「茶屋も多く」や「住舎も繁華にして目に溢れるばかり」という記述に興味を持つ。かつての鞆の浦の隆盛ぶりが大いに偲ばれるからだ。
(ページ2に続く)