1800年、名君として名高い22代王・正祖(チョンジョ)が亡くなり、その息子が10歳の若さで23代王・純祖(スンジョ)として即位した。幼い純祖が王位についたのは、正祖には他に息子がいなかったからだ。しかし、成人もしていない王が政治をするのは無理があり、垂簾聴政を行なったのが、21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の正室だった貞純(チョンスン)王后(1745年~1805年)だった。
強い権力を持った貞純王后
名君と言われる英祖だが、息子の荘献(チャンホン)との不和の結果、荘献を米びつに閉じ込めて餓死させたことがあった。この事件に貞純王后も大きく関わっていた。
実は、貞純王后が英祖の妻になったのは14歳のときであり、義理の息子になる荘献のほうが10歳も年上で目ざわりだったのだ。貞純王后は荘献の良からぬ噂を英祖に吹聴したと言われている。
その後、荘献の息子・正祖が王位に就くが、彼は荘献を死に追いやった者たちを決して許さなかった。もちろん、貞純王后もその1人なのだが、“大王大妃(テワンテビ/王の祖母)”であることが幸いし、罪を問われることはなかった。
しかし、その一族や一派は政治的な権力を取りあげられ、静かに暮らすことを余儀なくされた。ところが、1800年に正祖が亡くなると、貞純王后は再び絶大な権力を握ることになる。正祖の死を看取ったのは、彼女だけだったからだ。
貞純王后は周囲をうまく言いくるめ、幼い純祖の代わりに自由に政治を行なった。手始めに、正祖が重用した臣下たちを政治から次々に退場させ、自分の一族の権力を復活させた。さらに正祖が改革した政治や制度、法律などもすべて、自分に都合のいいように変更していった。
貞純王后が行なった暴政の中で、最も有名なのが、キリスト教の弾圧だ。実は政敵の中にキリスト教徒が多かったからだ。
キリスト教弾圧のために、貞純王后が利用したのが“五家作統法”だ。これは本来、連なった5つの世帯が連携して、犯罪を未然に防ぐ治安維持方法である。貞純王后は“五家作統法”を利用して、キリスト教徒の密告をさせたのだ。
こうして、1世帯でもキリスト教徒が出た場合、5世帯が罪に問われた。そのため、多くの罪のない命が奪われてしまった。
元凶の貞純王后は1805年に60歳で亡くなった。正祖の善政を無に帰した悪女だった。
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