日本各地で大歓迎を受けた
当時の日本の人々から見れば、朝鮮通信使に随行してくる知識人は先進の文化を兼ね備えていた。それだけに、多くの人々が朝鮮通信使の宿舎を訪ね、書画の揮毫を願ったり、漢詩を吟じ合ったり、医学知識を論じ合ったりした。
特に、文書の起草を担う製述官は大変な人気だった。それゆえ、朝鮮王朝でも特別に文才を持った人を製述官に起用するのが常だった。
庶民も朝鮮通信使の来日を心待ちにしていた。異国の風俗に触れる機会がまったくない当時、朝鮮通信使の長い行列は最高の“パレード”でもあったのだ。
よほど感激したのか、日本の絵師は競うように朝鮮通信使の一行を描いている。どれも異国情緒たっぷりだ。そうした絵は庶民の間で飛ぶように売れた。
このように、日本各地で大歓迎を受けた朝鮮通信使。反対に、日本の使節は朝鮮半島でどのように受け入れられたのか。
実は、朝鮮半島の庶民は日本の使節のことをまったく知らなかった。日本の使節は釜山(プサン)に上陸するとそこに留め置かれて、先には一歩も入れてもらえなかったからである。
なぜ釜山止まりだったのか。
朝鮮王朝の側に苦い過去の記憶があったからだ。
実は、豊臣軍が漢陽に向かって一気に攻めあがった道が、室町時代にやってきた日本の使節が通った経路と同じだった。
「二の舞になりたくない」
すでに時代が違うのに、朝鮮王朝は過度に警戒しすぎていた。その結果として、日本の使節は漢陽でなく釜山において朝鮮王朝側の接待を受けることになってしまった。
この点が惜しまれる。
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