東京・新大保のコリアタウン化というのは、最初に職安通りで始まった。今の「ドン・キホーテ」がある場所に1980年代には韓国系の教会があり、その周辺に韓国食堂が増えていったが、決定的な役割を果たしたのが韓国スーパーとも言える「韓国広場」の誕生だった。
インフラの誕生
1990年代なかばに「韓国広場」をオープンして「新大久保のコリアタウンを作った人」と言われた金根熙(キム・グンヒ)さんは、私にこう語っていた。
「たとえば食堂が一軒だけ成功しても、この地域のためにはならないのです。必要なのはインフラであり、ソウルと同じような食堂を作るには材料を揃えなければなりません。それで韓国広場がインフラになり、材料を調達できるようになったのです。それから1年で韓国の食堂が60軒くらいできましたよ」
こうして、「韓国広場」を中心に本場の韓国料理を提供する食堂が次々にできるようになり、職安通りは徐々にコリアタウンの様相を呈していった。
さらに、金根熙さんは職安通りに韓国のドラマ・映画のソフトを集めた「コリアプラザ」をオープンさせて、韓国のエンタメを楽しめる環境を整えた。
当時は、JR新大久保駅から続く大久保通りには、まだ韓国系の食堂やショップは多くなかった。
間違いなく、コリアタウンの主流は職安通りであった。
この職安通りではやがて「大使館」という韓国食堂が人気を集めた。特に、2002年のサッカー・ワールドカップ日韓大会のとき、「大使館」の駐車場が多くのファンが集まる広場のような役割を果たし、新聞やテレビでもその賑わいが報道された。
こうして職安通りが有名になっていくと、今度は凄まじいブームがやってきた。2004年には日本で『冬のソナタ』が大人気を博し、ペ・ヨンジュンが「ヨン様」として脚光を浴びると、韓流に縁が深い新大保にも多くの人が訪れるようになった。
そして、もっと新大保駅に近い大久保通りにたくさんの韓国食堂や韓流ショップが増えていったのである。
(次回に続く)
文=康 熙奉(カン・ヒボン)
康熙奉(カン・ヒボン)の新大久保ときめき物語1「25年前の職安通り」
康熙奉(カン・ヒボン)の新大久保ときめき物語2「コリアタウンの誕生秘話」
コラム提供:ロコレ