1863年の即位当時は11歳だった高宗(コジョン)。まだ幼いという理由で興宣大院君(フンソンデウォングン)が代わりに政治を行ない、弱体化した王権の復活に全力を注いでいった。
景福宮の再建を強行
興宣大院君は手始めに、要職についていた安東(アンドン)・金氏(キムシ)の一族や、彼らの息のかかった不正役人たちを厳しく処罰した。
安東・金氏も、まんまと騙された。しかし、あとの祭りだ。無能と見なしていた興宣大院君によって追放される羽目になった。こうして約60年間も朝鮮王朝を支配した安東・金氏の時代は終わった。
その後の興宣大院君は、腐敗しきった政治を正すために、優秀な人物をどんどん登用して民心の安定に力を注いだ。
しかし、急ぎすぎた改革は新しい不満を生んだ。その一つが景福宮(キョンボックン)の再建だった。
王朝創設のときに建てられた正宮の景福宮は、1592年、豊臣軍との戦いの際に焼失したままだった。
興宣大院君は、王権の強さを示すために、まず景福宮の再建を強行した。しかし、修復には莫大な資金が必要となり、庶民の税負担が重くなった。これによって、人々は興宣大院君に恨みを抱くようになった。
(ページ2に続く)