23代王・純祖(スンジョ)の妻であった純元(スヌォン)王后。彼女の父が金祖淳(キム・ジョスン)だった。王の義理の父となった彼は、自分の一族である安東(アンドン)・金氏(キムシ)による勢道政治を進めた。これは、王の外戚が中心になって行なう政治のことである。
不本意だった憲宗
純祖は政治を牛耳る安東・金氏の一族を止めることができず、1834年に無念のまま世を去った。すでに彼の長男は亡くなっていたので、その孫が24代王の憲宗(ホンジョン)としてわずか7歳で即位した。
憲宗が幼かったこともあり、祖母の純元王后が代理で王政を行なった。憲宗自身が政治を仕切るようになったのは、14歳になってからだった。その間に、安東・金氏は一段と力を付けて、王の権力を上回るほどだった。
安東・金氏が私腹を肥やす過程で、一番被害を受けたのは庶民だった。少しもよくならない生活に嫌気がさした人々は、各地で大規模な反乱を起こしていく。
また、安東・金氏の勢道政治に不満を持つ人物は、庶民だけではなく官僚の中にも多くいた。彼らは新しい王を擁立しようとして政局の転覆を狙ったが、それが失敗に終わり、首謀者たちは残虐に処刑された。
1845年、国政が乱れ切っている中で、さらなる問題が起こった。イギリスの船が朝鮮王朝の領海に無断侵入してきたのだ。朝廷は中国大陸の清を通して正式に抗議したが、イギリスからの返答はなかった。
また翌年には、純祖時代に起きた天主教(カトリック)弾圧事件に対して、殺された3人の宣教師の母国であるフランスから責任を問う書簡も届いた。
忍び寄る外国勢力の恐ろしさ……。民衆の心には、「この国にもう未来はないのかもしれない」といった気持ちが蔓延していった。
憲宗は、民心が離れていくのを見ていることしかできなかった。彼は安東・金氏から権力を取りあげようと動いたこともあったが、勢力があまりに強大すぎたために傍観せざるをえなかった。
1849年、憲宗はなんと22歳の若さでこの世を去った。勢道政治に振り回された彼は、王として何も残せなかった。
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