【時代劇が面白い】思い通りに政治を牛耳った王妃/朝鮮王朝の人物と歴史29

キム・ヨジンは『イ・サン』で貞純王后に扮していた

貞純(チョンスン)王后は、朝鮮王朝21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の正室となった女性だ。政治を思い通りに動かした彼女は、どのような人生を歩んだのだろうか。

14歳の王妃

英祖の最初の正室は貞聖(チョンソン)王后であったが、彼女は英祖の息子を産むことができず、彼が側室に子供を産ませていくのを見ながら1757年に亡くなった。
貞聖王后が世を去った2年後に正室として迎えられたのが貞純王后である。彼女の実家は名門の一族だったが、生活に困っていた父によって揀擇(カンテク)と呼ばれる「王妃を決める行事」に参加させられた。とても聡明だった貞純王后は、他の候補者よりも優れた才覚を発揮して、見事に英祖の妻となったのだ。
彼女の年齢は14歳で、英祖は65歳だった。あまりにも、王と歳の離れた王妃となった貞純王后は、こう考えていたに違いない。
「王が亡くなった後に、王宮に残る自分の立場をいかに有利にするか」
その際に、王族の人間関係を見た彼女が危険因子だと判断したのが、英祖と側室の映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏の間に生まれた荘献(チャンホン)だった。
貞純王后の父親は、官僚たちの主流派閥だった老論派(ノロンパ)の一員。その老論派から批判を受けていた荘献は、王である英祖と不仲だった。貞純王后は、その状況を見逃さず、荘献を排斥するために動いた。

彼女の役割は、荘献の素行を歪めて英祖に報告することだ。王妃になってからまだ日の浅かった貞純王后だが、彼女の報告を聞いた英祖は息子への不信感を募らせた。結局、荘献は1762年に米びつに閉じ込められて餓死してしまう。
1776年3月5日に82歳で世を去った英祖。彼の後継者として選ばれたのは、荘献の息子である祘(サン)だ。しかし、貞純王后は祘が次の王として即位することを妨害した。そのためにいろいろと策をめぐらしたが、すべて功を奏せず、1776年3月10日に祘が22代王・正祖(チョンジョ)として即位した。
正祖は父親の荘献の死に関わった者たちを処罰するが、彼にとって祖母に当たる貞純王后への対応は難しかった。朝鮮王朝では儒教を国教にしていたため「孝行」が最高の徳目になっていたからだ。この辺りのことは、ドラマ『イ・サン』で次のように描かれている。
正祖が22代王として即位した直後、大罪を犯した容疑者と見られた貞純王后は自決を図って、翌朝に寝床で倒れているところを発見される。一命を取り留めた彼女は、御前会議の場で正祖に謝辞を述べた。そんな感じで、ドラマでは貞純王后が自省を装って罪を逃れようする展開で描かれている。

一方、実際の歴史では、処罰に抵抗した貞純王后が断食を行なったと記録が残っている。王の祖母に断食をさせたことに対して、官僚たちは議論を重ねる。その状況で貞純王后を処罰できるはずもなく、彼女の罪は不問となった。
それからしばらくは目立った行動をしなかった貞純王后だが、1800年6月に再び表立って行動するようになった。このとき正祖の命はかなり危険な状態で、病床に伏せていた。そこへ貞純王后が現れて、王の症状が英祖の症状と似ていることを伝え、そのときの薬を処方するように言ったのである。
その後、彼女は驚くべき行動に出る。なんと、自分が看病すると言いだして、高官たちをみんな部屋の外に出してしまったのだ。しばらくして、部屋の中から貞純王后の泣く声が聞こえ、高官たちが慌てて部屋に入ると正祖はすでに亡くなっていた。それは1800年6月28日のことだった。
正祖が世を去った後、貞純王后が王を毒殺したのではないかという噂が広まった。なぜなら、正祖が亡くなったことで一番得をするのが貞純王后だからだ。
正祖の後を継いで王となったのは、彼の息子の純祖(スンジョ)だ。しかし、当時10歳だったため、政治を行なうことができないので、王室の最長老である貞純王后が代理で政治を行なった。

彼女は、正祖が重用していた高官たちを罷免(ひめん)し、政治的に進めていた改革をつぶしていった。さらに貞純王后はカトリック教の弾圧を行なっている。その理由は「儒教の価値観を否定していること」と「自分に敵対する勢力にカトリック教徒が多いこと」だった。
貞純王后は、5つの家が飢餓に備えて食糧事情を把握することを目的として作られた五家作統法を悪用した。それにより、5つの世帯の中からもしカトリック教徒が出たら、連帯責任として5つの世帯すべてが罰せられた。その際に密告が相次いで、数万人の人が処刑された。その中にはカトリック教徒でないのに処刑された人も多くいた。彼女が行なっていた政治は、恐怖政治と呼ばざるを得ないものだった。
このようなことは絶対にあってはならないが、それが許されてしまったのは朝鮮王朝の悲劇である。本来なら貞純王后は王族の最長老として正当性を守らなければならない立場にあったのに、彼女は罪もない多くの人の命を奪ったのだ。
そんな貞純王后も1805年に60歳で世を去った。横暴を働いたが、彼女からしてみれば、自分の思い通りに政治を動かすことができたのだから、まさに「天寿を全うした」と言えるかもしれない。しかし、庶民から見れば、「最悪の王妃」だった。

文=康 大地(コウ ダイチ)

コラム提供:チャレソ
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2021.09.25