かつて光海君(クァンヘグン)には暴君のイメージが付きまとっていた。しかし、近年になると「むしろ名君ではなかったのか」という再評価の動きが顕著になった。果たして、光海君は暴君だったのか。それとも名君だったのか。その人生を見てみよう。
15代王として即位
◆光海君は1575年に生まれた。父は14代王の宣祖(ソンジョ)で、母は側室の恭嬪(コンビン)・金(キム)氏である。
◆宣祖の正室の懿仁(ウィイン)王后は子供を産むことができなかったので、側室から生まれた王子が世子になった。候補は宣祖の長男・臨海君(イメグン)と二男・光海君であった。
◆臨海君は豊臣軍の攻撃のとき加藤清正の捕虜になり、和平交渉の取り引きの材料にされた。その屈辱から解放後の臨海君は酒乱となってしまった。一方の光海君は、地方に行って義兵を集めて戦功を挙げている。
◆宣祖から世子に指名されたのは光海君だった。二男だが、長男の臨海海をさしおいて国王の正式な後継者になった。
◆懿仁王后が1600年に亡くなって宣祖は二番目の正室として仁穆(インモク)王后と再婚した。彼女が1606年に永昌大君(ヨンチャンデグン)を産んだ。宣祖は大いに喜び、いずれは永昌大君に世子を変えるつもりだったが、1608年に急死した。
◆2歳の永昌大君が即位することは不可能だった。予定通り光海君が15代王として即位した。
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