1970年代から1980年代にかけて、韓国は自由を犠牲にした代償として経済的には飛躍的な発展をとげた。しかし、国民の生活が徐々に豊かになっていっても、在野勢力の不満は一向に解消されなかった。強圧的な取締りによって自主的な活動は極端に制限され、表現の自由も許されなかったからだ。その末に、国民の我慢も限界に達しようとしていた。
朴正熙が反面教師
全斗煥(チョン・ドゥファン)は大統領に就任したとき(1980年)から、末永く大統領職にとどまる考えはなく、時期がくれば平和的に政権を委譲すると決意を述べていた。彼は「韓国で初めて正統に権力を手放した最初の大統領」になることを願っていた。
そこには、朴正熙(パク・チョンヒ)の二の舞はぜひとも避けたいという気持ちが働いていた。朴正熙は政権を長く掌握しすぎた結果、信頼していた部下に暗殺されてしまったのだ(1979年10月)。
全斗煥は、無残な最期を迎えた朴正熙を反面教師にしようとしていたのである。
その政権委譲の時期が近づきつつあった。ただし、7年間の大統領の任期が終盤にさしかかったとき、全斗煥は大統領制から議員内閣制への移行をはかるようになった。
この動きに対して野党は疑いの目を向けた。議員内閣制に変えて全斗煥は引き続き首相の座を維持して権力の保持につとめるのではないか、という猜疑心をもったのである。
学生たちの反全斗煥の動きが日増しに拡大した。その中で「朴鍾哲(パク・ジョンチョル)君拷問死事件」が起こった。(ページ2に続く)