広島の鞆の浦にある福禅寺からの眺めは、朝鮮通信使が「日東第一形勝」と絶賛していた。同じく朝鮮通信使が「東海の名勝」と称賛したのが、清見寺(せいけんじ)から見た駿河湾の景観だった。今はかなり風景が変わってしまったのだが……。
「東海の名勝」のその後
江戸時代、海の沖合に三保の松原が見える風景はよほどすばらしかったようで、この清見寺に立ち寄ることが朝鮮通信使の楽しみの一つだった。
ただし、福禅寺からの景観は、現在も朝鮮通信使の一行が見たものとほとんど同じだが、「東海の名勝」は明治以降に一変してしまった。
まず、広大な清見寺の境内を東海道本線が横切るようになったし、目の前の海は埋め立てられて工場が立ち並び、三保の松原も見えなくなっている。
日本の大動脈に位置していたがゆえに、開発という名のもとで景観がすっかり変わってしまった。
それでも、清見寺が朝鮮通信使と深い縁を持っていたという事実は変わらない。なにしろ、朝鮮通信使が記した書画が最も数多く残っているのが清見寺であり、国から「朝鮮通信使史跡」に指定されているほどである。
その清見寺は、東海道本線の興津駅の近くにある。
(ページ2に続く)
韓国と交流があった土地を訪ねて(第9回/百済寺跡・鬼室神社3)