仁粋大妃は息子の成宗(ソンジョン)がまだ10歳だったので、垂簾聴政(すいれんちょうせい)が必要でした。これは、幼い王の背後に御簾(みす)をたらし、その奥から摂政の人が重要な政治的決定をするというものです。
熱心な仏教徒
垂簾聴政を朝鮮王朝で初めて行なったのが貞熹王后です。ただし、貞熹王后は学がなくて文字が読めませんでした。
そこで指南役になったのが仁粋大妃です。彼女は漢字が読めるし、中国の古典に精通して学問を積んでいました。
当時の朝鮮王朝には女性に学問をさせる風潮はまったくなかったのですが、仁粋大妃は別格でした。
こうして、若くして夫を亡くした仁粋大妃が大きな力を持つようになるのです。実際、仁粋大妃も政治に大きな関心を持っていました。
成宗は垂簾聴政を15歳くらいまで受けて一人前になります。
そこから親政を行なうことになりますが、王の母として仁粋大妃の影響力は絶大なものでした。
実は、朝鮮王朝は儒教を崇拝して仏教を迫害する政策を続けていましたが、意外と王族の女性は仏教を信仰することが多かったのです。
仁粋大妃もとても熱心な仏教徒でした。
しかし、成宗の側近たちは、さらに仏教を迫害する政策を推し進めようとしました。それに大反対したのが仁粋大妃でした。
「まかりならん!」
仁粋大妃は激怒し、と自分の息子に働きかけます。結局、官僚たちに強権を発動して勝利を収めました。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
コラム:韓流テスギ提供
王妃の歴史実録2/『七日の王妃』の端敬王后はなぜ復位できなかったのか